ジョージ・ミラー『マッドマックス 怒りのデス・ロード』(2015)


劇場以来2回目の鑑賞。脚本の恐るべき頭の良さと破天荒なデザインに頭が下がる。

アクションとドラマを同時進行させるために、その両者が有機的に接続されている。とても練られた脚本だと思うし、作者の意図に沿って本作を読んでみたい、という誘惑に駆られる作品である。


この映画のアクションにおける主題は、間違いなくラストの輸血シーンに代表されるような、人と人とを繋ぐ一本の紐のイメージである。それを繋げたり、切断したりすることでドラマが語られていく。そして恐らくはそこに、母親と胎児を繋ぐへその緒と大地に根を張る植物のイメージが挿入されている(やや言語的な連想だが)。

以下では、この中心的な主題に注目し、作品全体を物語の流れに沿って描出していきたいと思う。


◆繋がる、繋げる、引っ掛ける、切断する

冒頭では、人と人とを繋ぐ紐のイメージがはっきり「悪」として観客に印象付けられる。

鎖に繋がれ、血液袋として利用されるマックスはもちろん、フュリオサの乗る車体にウォーボーイズたちが給油タンクを接続し(これは後にタイヤがイカレて車体の足かせとなる)、イモータンジョーに鎧をはめ込んでいく。ジョーもリクタスも、悪役はみな呼吸器に繋がれているし、子産み女どもはミルクを絞り上げるために繋がれている。ウォーボーイズたちは銛を突き刺し、引っ掛けて「繋がる」ことでマックスらを妨害してくる。まっこと悪のイメージしかない。

だからこそ、序盤では、それらの邪魔な繋がりを「切断」することが快感になっていく。「繋がり」は観客にストレスを与える役目を担っており、それを切断することで観客は解放感を味わえるのだ。

しかし、主人公たちのドラマでは、これらが逆転することになる。悪のイメージしかなかった「繋がり」は連帯として肯定的に変奏されていく。もちろん、運動を通じて。


◆フュリオサとマックスの遭遇戦

嵐を抜けて、ニュークスが気絶したことで自由になったマックスがフュリオサたちに追いつく場面。
ここが、心理的にも、主題的にも、アクション的にも一番複雑で、ゆえに最も面白いシーンになっている。

一つずつ見ていこう。

まず、遭遇の前でマックスはニュークスと繋がれた鎖を外すために、その白い腕を散弾銃で破壊しようとするが、これは「不発」。そのため、マックスは繋がれたまま、フュリオサたちに遭遇することになる。そして、まさに「繋がれている」ことによって、おかしなチームワークを発揮することになるのである。

アクションだけを見ると、マックスとニュークスは連帯している。まず二人を繋ぐ鎖がフュリオサの足を引っかけるし、その後も二人はフュリオサを組み伏せるために協力するのである。しかし、心理的にはそうではない。ニュークスはマックスと協力関係にあると勘違いしているが、マックスにはその意図はない。なので、鎖が切断されたあと、マックスはニュークスの腹を殴って彼を置き去りにする。

ここでは運動という即物的なものと、内面という抽象的なものに差異が生じている。このシーンの面白さの一因である。

一方で、フュリオサとマックスは外見的なものと内面的なものが一致している。二人は銃口を突きつけながら敵対し、内面的にも間違いなく敵対している。

また、銃口で指示された女がなかなかマックスの鎖を切らず、その隙をついてフュリオサが突進してきたり、あるいはフュリオサを組み伏せるマックスの鎖を引っ張って、その邪魔をするアクションもある。女どもとマックスの間では、このとき「繋がり」に敵対的なイメージが付与されていることも見逃せない。女たちとフュリオサが無言の連帯をしていることも重要だろう。


◆一時的な連帯と、谷の場面

その後、マックスに主導権を奪われたフュリオサと女たちは彼と駆け引きを行いながら、谷を目指していく。ここでマックスは常に銃を突きつけ、あるいは女たちの銃を奪い、その目を離さない。ここにおいてもマックスの顔を隠す拘束具は外されておらず、観客にストレスを与え続けている。この拘束具が外されるのは、もう少し先のことである。このように、本作には絶えずストレスとその解放が仕掛けてあり、観客が揺さぶられ続けるように計画されている。

だが、それに変化が生じるのが谷の場面だ。

ここでフュリオサは、自身が外に出ていくためにハンドルをマックスに任せる。これが初めての「ハンドルを任せる」仕草であると思うが、これは本作において「信頼」を想起させるアクションとして繰り返し使われることになる。まあ自動車をこれだけ走らせる映画ですからね。

感動的なのは、事前の打ち合わせ通り「FUUUUCK!!!」と叫ぶフュリオサに呼応して、マックスが完璧な連帯を見せることである。間髪入れずにエンジンを発進させ、あまつさえフュリオサに銃を手渡す。それまで銃を突き合わせていた人間に対して、銃を手渡すのである。

ここで、アクションと内面は乖離しているのだろうか。一致しているのだろうか。

共通の敵から逃れるために、一時的に協力するのだから、まず先にあるのはアクションであって二人の信頼関係ではないのだと思う。内面にどのような変化が生じているかは、分からない。しかしながら、遭遇したときほどの険悪さはないだろう。アクションという即物的で外面的な事柄が、内面に変化を生じせしめているのである。内面には立ち入っていないにも関わらず、内面の変化というドラマをアクションで見せていっている!のだ。世界観が厳しいので出てくる人物は安易に内面を露わにしたりしない、ハードボイルドな人間たちである。そして内面を無視することで成立する、敵味方を越えた連帯の称揚がある。これがアメリカ映画の一種の伝統なのだが、ちなみにこれはオーストラリアの映画だ。

物語や主題や感情といった抽象的なものが最初にあるわけではなく、外面的なものがまず先にあり、そこにあとから抽象的なものが生じる。そしてそれが再び外面的なものを生む。これが運動と物語の関係だとわたしは先人から教えられている。


◆連帯は完成される

谷を抜けてからしばらくは砂漠を疾走しながらアクションが矢継ぎ早に繰り出されていくのであるが、ここにきて一時的なものであったはずのマックスとフュリオサの連帯が本物へと変わっていく。より中間的で微妙なところを担っているので、先ほどよりもさらに細かな演出力が試されることになるが、ジョージ・ミラーの手腕は確かである。

まずは、2回目の銃の手渡しをする。マックスからフュリオサへ。これはまあ当たり前だ。反復はエモーションを強化する。そしてここで間髪入れずに次の演出を畳みかける。ジョージ・ミラーはまず、二人にそれぞれ違う方向へと銃を撃たせる。さらに、そこから同じ方向に撃たせるのである。それによって二人に連帯感を持たせるのだ。これはとても熱い、いいシーンだ。ハワード・ホークスみたいな細かな演出だと思った。


◆ニュークスの行方

一旦は、ジョーの方へと戻ったニュークスはさて、ジョーに必死にアピールすることで見初められ追撃の一番槍を任せられることになっている。しかしながら、手柄を立てようとして飛び乗ったはいいものの、鎖が引っかかり、これが失敗してしまう。ジョーは冷淡に「間抜けめ」と言うだけで、ニュークスは実質的にこれまでいた世界から見捨てられてしまう。マックスとのやりとりといい、愛らしい間抜けさが一貫しているキャラクターだ。

注目すべきは、鎖によって「繋がる」ことがこれまでのニュークスにとっては「悪い」意味を持っているのに対して、マックスたちの世界へと踏み込んでいくという点では「良い」意味を持っているということである。

ところで、このニュークスが失敗し、スプレンディドが脱落する場面には印象的なアクションが挿入されていることに気がついた。つまり、ウォーボーイズの銛が撃ち込まれ、マックスの手ごとハンドルが引っ張られるアクションのことである。ここでは、最初に遭遇したときには「不発」に終わった「切断」が今度こそ達成される。対比と反復が生み出す効果は確かなもので、女どもが今度は協力してマックスを拘束する鎖を切断する様には感動を覚える。

このようにして、極めて繊細に、連帯が進行していく様が描かれている。


◆木に引っかける

沼地にさしかかり、自動車が沈み込んでしまう。ここは重要なシーンである。
一つは、ニュークスが連帯の和に加わるという点で。もう一つは、ここで「繋がる」ことに、植物のイメージが挿入されるという点で。

ニュークスは、沈み込んだ車体を引っ張るために、木に自動車を結びつけることを提案する。このことで、彼は「繋がり」に肯定的なイメージを与える世界に参入することになり、しかもそのあとハンドルを任される。
(ちなみにこの時点でマックスとフュリオサは、自分ではダメだから相手に銃を渡し、その台座として肩を預けるというような、より先に進んだ連帯のアクションを滑らかに行っている。そして、ニュークスはここに遅れて参戦することになる)

このシーンでは植物が即物的に救いの手段となるが、これは、フュリオサの目指す「緑の地」という抽象的な理想郷へとつなぐ梯子のような機能があるのだろう。まあ、ここはどうしても即物さにかけるかなあという気もするが。

また、冒頭で、乳を絞り出される子産み女どもと育てられる植物は並置されていたが、ここでは繋がれた植物がマックスらの救いの手となり、へその緒が切断されて息子の死という痛みをジョーに与えるというイメージが並置されている。植物の根と、へその緒のイメージ。


◆青い画面

ところで沼地の場面以降、しばらく青い画面が続くけど、ここで画面に火を入れることで、フレーム内に赤と青という異なる色を持ち込んでいる事が分かる。知的な仕掛けだ。

一度目。後部座席で火を灯す女たちが温かい赤に彩られることで、むしろマックスとフュリオサが青く冷たい空気を共有していることを示している。

二度目、理想郷ではないと知れた「緑の地」において星空を眺める場面では、ニュークスと赤毛の女の子が火に照らされて、暖かい空気を共有していることを示している。


◆見つめ合うこととメロドラマ

本作の終盤に差し掛かり、二人の男女がメロドラマ的に見つめ合うことになる。

一組目は、もちろんマックスとフュリオサである。

車体の外側を動くマックスと、内側で運転するフュリオサが窓ガラス越しに見つめ合う場面では、メロドラマの常としてそこに死の気配が漂っている。そしてそれを裏付けるかのように、マックスは自動車から落ちかけてしまい、フュリオサは脇腹を刺されることになる。死神が二人に近づいてくるのだ。もちろん、二人を一本の手が「繋いでいる」が、それはつまりその連帯が切断されたときにこそ死が訪れるということに他ならないだろう。

しかしながら、二人は死ぬことはない。エンジンは再点火し、マックスは宙づりの状態から脱出。フュリオサは刺さったナイフを抜く。それによって観客に掛けられていたストレスが解放され、一時的な快感が生じるが、しかし二人の連帯は千切れ、「フュリオサが刺された!」という言葉に反応したマックスとそれに応えるフュリオサが再び見つめ合うことになる。

さあ、この男女はもう一度見つめ合うことができるのだろうか?


二組目は、当然ニュークスとあの赤毛の女である。

この二人は、メロドラマ的に見つめ合いながら死に別れることになる。「おれを見ろ」という言葉はジョーにささげられる忠誠心ではなく、まさしく男女のメロドラマになってしまっている。だから、二人は死に別れるのだ。


◆引っこ抜くこと

イモータン・ジョーの死はあっけなく訪れる。リクタスがそうされたように、呼吸器を引っこ抜かれることで死ぬのだ。ラスボスの死としては実にあっけないものだが、ここでももちろん、人を繋ぐものを「切断」するというアクションが徹底されていることは間違いない。

また、その際にフュリオサが銛の先端を、ジョーの呼吸器に引っ掛けて、引き寄せ、そして引っこ抜くというアクションの連鎖を畳みかけていることは、あっけないながらジョーの死のインパクトをより強めている。

リクタスは呼吸器を抜かれただけでは死ななかったことが分かるのだが、そのあとニュークスと赤毛のメロドラマの添え物にされて消えていく。なぜかエンジンを引っこ抜いて誇示しながら死んでいくことになるのだ。



◆輸血シーン、そして男女はもう一度だけ見つめ合う

ここまで来るとむしろ、マックスとフュリオサが輸血チューブを通じて「繋がる」場面について多言を要しないと思う。最初はニュークスとマックスを繋ぎ、言わずもがな「悪」のイメージを付与されていたチューブを本作最大のドラマシーンに再利用しているわけだ。徹底はされているけど、こういうのちょっと一本調子だな、とも思います。『オデッセイ』のラストの唐突な「繋がり」の方がカタルシスがあったように思う。

個人的にグッと来たのはむしろ、最後にもう一度だけマックスとフュリオサがただ見つめ合うシーンである。死の予感がするメロドラマ的な見つめ合いをくぐり抜け、共闘し、男女はもう一度見つめ合う。一人は上がっていき、もう一人は下にいて背を向け、立ち去っていく。

実に古典的ながら、いいシーンだなと思った。



◆感想

再見してもあまり印象は変わらず、脚本の巧みさとデザインの異常さには唸るものの、編集のリズムとつなげるカットの関係にはちょっと不満かな(ここは言語化が難しいのだが)。時々、気持ちのいい繋ぎとか、驚きのある繋ぎもあるんだけど。あと、照明が平板なのは面白みがないともいえるけど、まあこういう映画でギラギラした明暗のコントラストを出されるとくどいだけかもしれない。世評とは違い、入念な計画に基づいて設計された、知的な映画である。一回きりのスタントとかはあるけど、当て勘はあまり使っていないのかもしれない。ということで、わたしが映画に求めるところの、本能的な才能や驚きはあまり感じなかった。

でも、面白い映画だし、すごい仕事である。