言語化と映画
君がある映画を見て、それがとても面白かったとする。
その映画の面白さについて誰かに話してしまいたいから、そこにいた友人を見つけて猛烈に語り出してしまったとしよう。それが、おなじ映画を見て、おなじように面白いと思った人で、あまりにも言葉足らずな「○○がよかったよね!」という言葉に、心強く賛同してくれるなら話は簡単だ。「ガルパンはいいぞ」的に言葉を交わしていればいい。
けれども、相手が違うところに面白さを見出している人だったらどうする?
そもそも見ていなかったら? あるいは見たとしても、面白いとも思っていなかったら? むしろ激しく嫌っていたら? そんな困難な状況にあって、それでもその映画の面白さを伝えないといけないとしたら? そんなときはどうしよう?
こういう事情から、人は言語化という作業に移ることになる。友達に話すのでもいいし、こうしてブログ記事に書いてもいい。感想やら批評やらといった言葉を定義するのは面倒くさいので、あえて言語化と言わせてもらう。言語化=「言葉にすること」くらいの意味合いで。
映画を言語化するのは難しい。まず、特定のシーンを説明するのが難しい。なにせ情報が並列的に出るので、真剣に悩んでもただの1カットの画が伝わらなかったりする。というか正確には伝わらない。言語という粗悪なコピーを通じてしか伝わらないのだ。
小説だとまだ本文を引用することができる(かといって小説の言語化が簡単だと言いたいわけじゃない)。映画だとスクリーンショットを撮ったり、GIF画像を載せたり、動画を載せたりする必要がある。現代だと環境が発展しているから昔よりかは随分と楽になったけど、記憶媒体のないフィルムの時代なんか大変に決まっていて、それこそ淀川長治のように映画を頭から尻まで記憶する人が出てくるのだろう。
しかし、とあるシーンやカットを再現できたとしても、今度は面白さを伝えるのが難しい。
自分なりに誠実に言葉を選んでも、相手が面白いと思ってくれるとは限らない。なので、大きな主語を使ったり、強い言葉を使ったりして他人を強く扇動しなければならなくなる。ぼくだってそういうことをやる。面白いと思った映画については過剰に反応してみせて、あるいは非誠実だけどインパクトのある言葉を使うこともある。Twitterやプライベートでそれなりにやってきた経験として、これは本当なので、悲しいけど、悲しいくらいに本当だ。
それが嫌だから、シンプルに「とにかく見ろ」と言うことにする。そうすると、みんな結構「面白い」と言ってくれたりして、そんな経験が積み重なっていくことで、要するに「この人の紹介する映画は面白い」という評判がつき、みんな映画を見てくれるようになる。そうするとぼくの言葉の価値も上がり、何かの作品について書くと、それなりに信頼して読んでくれる人も現れる。「これを見た方がいい」という言葉自体、つまりセレクト自体に価値が生まれるのだ。
なので、映画紹介者としてのぼくの支持者は、もちろんのこと身内に位置する人間が多い。身内だとネットに書かず、私信でオススメしたり、直接会って話してオススメしたりと選択肢も多い。
誠実に書くよりも、何よりも「見ろ」と言うのが早くて、「この人が紹介する映画は面白い」という信用ができれば勝ち、というのは書くのが好きな人間にとってはとても悲しいできことだけど、役割が違うのだから仕方がないのだろう、とも思う。
また他の問題もあって、ぼくが伝える言葉がだれかの好奇心を喚起しないことではなく、ぼくの書いている言葉が全的なものとして相手に伝わっていないということもある。ぼくだってこのブログにそれはまあ色々と書いてはいるけれど、言語化すればするほど、ぼくの感じた面白さを10とすると、1,2くらいしか伝えられていないのではないかという気分になる。
いや、たぶん比喩が適切ではないな。
ぼくの感じた面白さは、書かれた言葉となって、つまり粗悪なコピーとなって他人に伝わっている。翻訳みたいなものだ。視覚と聴覚、それとぼくの知識や人格、センスをすべて動員して楽しんだものを、この貧弱な言語能力で他人に十全に伝えられるわけがない(ぼくのセンスが優れていると言いたいわけじゃない。単にぼくと他人では違うってこと)。むしろそれは、間違った方法で伝わってしまっている。
なので、ぼくの言葉を聞いて劇場に走ってくれた人は、劇場でこう思う。
「思ってたのと違うじゃん!」
むろん、ぼくはぼくなりに頑張っているつもりなので、概ね「思っていたとおりに面白いね!」と思ってくれるかもしれない。しかし、差異は生じる。
映画は目を使って楽しむものだし、聴覚とか、抽象思考とかも使う、とても複雑な代物だ。そういったものを循環させて楽しむところに映画の面白さがある。
なのに感想とか批評とかは言葉を使って書くしかないのだ。動画を使うこともそりゃできるけど、結局のところ「編集のリズムが悪い」とか「照明が悪い」とか「役者が浮いてる」とか、そういう感覚に依るところの多い要素は、説明するのが難しい。
しかしどうしても、そういうところにこそ映画の価値があるように思えてしまうのだ(小説だってそうだろう)。かえって、簡単に言語化できることにはあまり価値を感じていない。
まず、作品全体を鑑賞し終わっている人間が、一秒もその映画を見ていない人間に対して、その映画の面白さを伝えなくちゃいけないというのが大変だ。120分の体験を、僅かな文字にしなければならない。それは無茶だ。食べたことのない人間に、その料理の美味しさをどうやって伝える?
だから安易に言語化してしまうと、面白い作品よりも言語化しやすい作品が界隈で大きい顔をしはじめたり、言語化しにくい作品の、言語化しやすい部分ばかりが喧伝されてしまったりするような事態になる。そういうときにはむしろ、「ガルパンはいいぞ」的な言葉のほうがいいかもしれない。10の出来事を、1の分量しかない、しかも代替品で表現するよりも、ただ「ガルパンはいいぞ」と言ってしまうほうがいいときは沢山ある(もちろん、それだけではダメなときも無数にある)。
たとえば君はとある映画のクローズアップの魅力をどうやって伝える? 役者の顔のアップしか存在しないカットは、分節化されていないので、言語化しにくい。
その俳優の魅力を語るか? しかし有名な俳優ほど、アップカットはたくさんある。それはもう腐るほどある。他のカットではなく、ずばりそのクローズアップが素晴らしいのだと、どうやって伝える?
前後の流れを語るか? 確かに有名なモンタージュ理論を引き合いに出すまでもなく、前後のカットの話をしてしまえば、クローズアップは分節化され、意味を付与することができる。
けれども、まさにそのクローズアップそれ自体の魅力を語りたいとき。君はどんな言葉を使う? ただ一つのカットの魅力を説明するために、辞書何冊分の言葉を費やしても無理だとしても、何か言わなければいけないときにどうやって説明する?
クローズアップがまさに言語化や分節化を拒むために使われているときだってある。たとえば、ジョナサン・デミ監督はよくそういうクローズアップを撮る。『羊たちの沈黙』で、はじめてクラリス捜査官がレクター博士に出会う場面では、美しいクローズアップのつるべ打ちが展開されるけど、あのクローズアップについてどう語ればいいのだろう。あるいは、『フィラデルフィア』で、すでに死期を悟ったトム・ハンクスが見舞いに来てくれた恋人と、言葉も少なく交わされる見つめ合いがただただクローズアップで映されるシーンをどう語る?
そういう場面はいくらでもある。それまで喧嘩していた恋人が、とつぜん池に飛び込んで、いつの間にか意味もなく仲直りしてしまっているような瞬間をどう語る?
理由なんてない! ご都合主義こそが真実なのだ!
『ステイ・フレンズ』でジャスティン・ティンバーレイクが、アルツハイマーの父親と一緒になって空港でパンツ一丁になる場面の感動をどう語る?
『ジャージー・ボーイズ』で果たされる、フランキー・ヴァリとその娘との和解の会話をどう語る? あるいはメンバーとの再会でがっしと交わされる握手をどう語る?
『オデッセイ』のラッピングされるような感動の再会シーンについて、どんな説明をつければいいんだ?
『ローラーガールズ・ダイアリー』の数えきれないほどの素晴らしい瞬間の数々を、どうやって言葉にしたらいい?
『テイク・ディス・ワルツ』の素晴らしいところなんていくらでもあるのに、ことごとくその知的な部分しか言葉にできとないとしたら、それについて書くのは誠実なのだろうか?
分からないけど、誠実に書いて、派手に喧伝しないと、その魅力がわずかであれ伝わる機会は少なくなる。それだけは確実だ。なので、ともかく書くしかないのだろう。書くしかないはずだ。なによりもそのときの自分自身がそう思ったのだと、忘れないために、書くしかないのだろう、とぼくは思う。