成瀬巳喜男『流れる』を見た
抽象的な映画だな、と思った。
ここでいう「抽象的」というのは、例えばこれを舞台を高校の部室に、登場人物を美少女にしたら、それはそれで成立させられるだろうという意味で抽象的なのだけれども、そうしてしまったら実際には成瀬ではなくなってしまうだろうなという気もして、あくまで限定的な抽象性でしかない。
素材というものは大事なもので、同じ方法論で作品を作ろうとしても、個々人によって依って立つことになる素材は違うのではないだろうか。自分が感情的なフックをリアルなものとして把握できるような題材でなければ、いくら形式的な作家であっても作品を提出することはできないだろうと思う。特定の具体的なものに結びついた感情を媒介にすることが重要だし、所詮は人間の頭から出てきたものが作品なんだから。
『流れる』では、一軒家が三次元的なモンタージュで立ち上がってきて、そこを動き、視線を飛ばし、漂わせる女優たちが動き回ることによって、抽象的な快楽が感じられる。それは確実に、個々の演じるキャラクターや物語、情感、設定との絡みでしか味わえないような快楽でありつつ、内容それ自体はどんなものであれ成立させられるような汎用性もまた感じるのだ。
美少女がずっと同じ空間で駄弁っているような深夜アニメがあったとして、その駄弁っている内容がどうでもいいようなものであるのと同じような感触。ただ、もうちょっと『流れる』の方がドラマに寄っていて、また空間と密接に結びついているので、流石にそこまでの内容に対するどうでもよさというのはない。大体、話が深刻だし。
高峰秀子のぼうっと空間を見つめる冷たい視線、暗がりを照らす雷鳴をバックに立つ後姿、山田五十鈴が家を売ると決めたときのシーンでその背後に座っているという驚きなど。芸者の家に生まれて、芸者ではない道を進もうとしているのに、誰よりも家を背負っているような重さ。
岡田茉莉子のぶっきらぼうで軽やかな美しさ。夜中に警官が来て、起こされたときのぶーたれた不機嫌そうな顔とか、ちょっとそういう歪んで不満げな表情に強さがある。無表情で虚空を見つめているのが怖い高峰秀子とは全然違うけど、その手触り、感覚の強さは残る。
また一方で、自分はこういういかにも「日本映画の情緒」というものが苦手なのだということを実感する機会でもあった。
好き嫌いで言えば、『女の中にいる他人』の「人殺し」という題材や、その空間的に閉じた人工性・冷たさの方が明らかに好きなので、『流れる』を見ながら思ったのは「ああ、成瀬というのはこういう素材で撮るのだった」という、ある意味で素材や人間観を通じた成瀬と自分との距離感である。
溝口、小津、成瀬といったいかにもな日本映画の巨匠ではなく、増村や三隅の方が性に合うのはそういうところで、たとえば『女の中にいる他人』はちょっと増村なんかが撮っているような感じもしないではない(正直に告白しようとする殺人犯とか)。
ただ小津とか成瀬にも、もちろん自分好みの冷たさやドライなところがあって、そういうのは恐らく黒沢清が引き継いでいる。いやまあ、小津とかはむしろ非常に冷たい視線を持っているんだけど、なんか微妙に自分が求めているものとも違うような気がするんだよね。
小津は最初こそ形式性・抽象性にハッとさせられるんだけど、だんだんと内容が刺さるようになってくる。