マノエル・ド・オリヴェイラ『ブロンド少女は過激に美しく』/映画妖怪、その奇妙さの正体を探る

ポルトガルの映画妖怪、マノエル・ド・オリヴェイラの『ブロンド少女は過激に美しく』を見た。
とてつもなく奇妙で面白い映画だった。

オリヴェイラの作品のうち、すでに見ているのは『永遠の語らい』と、『ポルトガル、ここに誕生す〜ギマランイス歴史地区』収録作「征服者、征服さる」の2作のみ。

オリヴェイラといえば人を食ったような作風で、しかも非常に高い技術を持ちながらそれをやる厄介なお爺さんというイメージが流通しているが、本作もおおむねそのイメージである。唖然とするオチという意味では『永遠の語らい』と似ていて、また全体のトーンは「征服者、征服さる」に似ている。

以下では、オリヴェイラの奇妙さについて述べたい。ネタバレしまくりなので、嫌な人は読まないように。


最初の疑問は、オリヴェイラの映像の奇妙さだ。

オリヴェイラのショットは決まっている。しかし、それらのショットは美しく充実しているにもかかわらず、とてもペラペラである。まるでスタジオシステム全盛の古典ハリウッド映画のようなショットが、同時に安っぽい背景合成のCG映画のように見えてしまう。これを単に「ショットが決まっている」と言ってしまっては意味がない。

これらの映像の奇妙さは、語られているもの(ストーリー、キャラ、設定など)と、語っている映像に様々な観点からズレが生じていることによるものだと思われる。

どんな映画にも、その映画自体を成り立たせている抽象的な外部がある。それが、ストーリーであったり、演じられるキャラクターであったり、テーマであったり、現実と比較するときの「もっともらしさ」であったりする。とりわけ「もっともらしさ」から観客が自由になるのは難しい。オリヴェイラの映画はちっとも「もっともらしく」ない。だから自然ではなく、単に失敗した演技や、失敗した撮影のようにも見える。にもかかわらず新鮮で強いイメージでもある。この不思議。

この映画は、電車に乗ったある男の語りによってはじめられる回想形式であるのだが、具体的な映像が、男の語るストーリーを様々な意味で裏切っていくことになる。ヴォイスオーヴァーによる回想といい、ファムファタールの存在といい、借りられている形式はノワールなのだが、ちっともそれらしくない。

例えば、窓越しにブロンド少女が現れる……のではなく、老いた女が洗濯物をはたいているところがぬっと出てくる醜い絵面にまず裏切られる。

ただ、語られるストーリーと、具体的な細部に事実レベルの齟齬がある、という単純な話にはならない。具体的な演技、表現、映像の質感、シーン選択、ショット選択、いずれもズレているのだ。

例えば、昼か夜かを示すためだけに、街を俯瞰する風景のショットが繰り返し出てくるのだが、いずれも観光旅行ガイドに出てくるような生っぽい素材が使われていてちぐはぐになっている。つまり、わたしたちが連想するような「夜であることを示す風景ショット」という抽象的なイメージと、オリヴェイラの提出する具体的で生っぽい映像がとてつもなくズレてしまっているのだ。にもかかわらず、オリヴェイラのショットは新鮮で独特なイメージを獲得するに至っている。

この風景のショットにかかわらず、ほとんどのシーンで生っぽい映像が、古典的な映画表現に奉仕させられているので、わたしたちのイメージする「映画のショット」という抽象的なものからズレており全編にわたって奇妙である。

あるいは、役者の立ち振る舞いについても同様のことが言える。この映画のショットの長さは、役者が単に「立たされている」ことを印象づける。ふらふらと小刻みに揺れる姿を見るといい。ブロンド少女がキスをするところで、片足をひょいとあげる仕草を切り取るショットにしても、いやに長いせいでぷるぷると震えている。この架空のブロンド少女がいるわけではなく、役者が演じているのだなと分からせるようなショットの長さだ。セリフも同様にもっともらしくない。

しかしオリヴェイラの「もっともらしく」なさは、前述したように、単なる失敗ではなく、イメージの強度に貢献している。

ここで、冒頭の窓越しのショットに戻ってみる。

ここでは、ある男が、向かい側の建物の窓辺に立っているブロンド少女を見るという、これまで何千回と繰り返されたであろう映画の紋切り型がおこなわれている。

「いくらなんでも向かい側の建物の窓が近すぎないか」とか、「この窓ってハリボテで奥には何もないのではないか」と思ってしまうのだが、一方ではそのような現実からはありえない人工性がイメージとしての強度に貢献しているのだ。

ただ、シネフィルはこういうときにイメージの強度や、ショットの強度のみに注目しがちだが、オリヴェイラの場合は、本来あるべき抽象的な外部とのズレや乖離こそが面白いと言うべきだと思う(これはゴダールと共通したところがありつつも、異なる感覚だ)。

わたしがここで思い出すのは、B級、C級、Z級などと呼ばれてしまう超低予算映画の数々である。Z級映画には、十分な予算やスケジュール、スタッフ、役者がいないため、脚本にあるとおりに具体的な映像をつくるのが難しくなる。そのため、実際に提出される映像が、観客が想像するような「本来あるべき映像、演技、質感、もっともらしさ」からズレてしまうため、安っぽくチープな印象が出てしまう。しかし、一方でそれはメジャーな映画の「もっともらしさ」に慣れた人間からすると、ある意味では新鮮なイメージである。そしてZ級映画はときに、メジャー映画では到達できないような凄みに突き抜けることがある。それが低予算映画を見る楽しみだ。

そもそも、ある脚本を具体的な映像によって語らなければならない映画にとって、このようなズレは常につきまとうものだ。Z級映画では主にリソースの不足から、そしてオリヴェイラにおいては主にその戦略から、そのズレが極限まで拡大されることになる。

高橋洋稲生平太郎の対談映画本『映画の生体解剖』では、「テクニックのある人は夢のシーンを作れない」「Z級映画のような映画こそ、ナチュラルなアンバランスさが出て、夢っぽくなる」ということを言っていたが、オリヴェイラは有数のテクニックを持ちながらも、ぎくしゃくしたアンバランスさを出すことのできる映画作家ということになるだろう。

そして、夢のような話を語るノワールの形式にとって、そのオリヴェイラの特質は合致する。そのような作品がひとまず『ブロンド少女は過激に美しく』という映画なのだといえる。

付け加えると、本作のファムファタールを演じたカタリナ・ヴァレンシュタインの存在感だけは生々しくリアルだった。あの瞳、あの鼻、あの唇、あの金髪。どれも夢の女にふさわしい美貌であり、もっともらしい。だがそれも、最後のオチで亀裂が入ってしまう。「夢の女」の化けの皮がはがれる、というのはいかにもノワール的なオチではあるのだが、そこはオリヴェイラ、テンプレートな喪失感や悲壮感はなく、狐につままれたような感覚になる。

ちなみに本作は、「美女に結婚を申し込んだところ、実は盗みをはたらく不良娘だとわかった。みな外面にだまされないように、内面を見よう」という教訓譚として読めるのだが、そういうストーリーが上っ面だけで語られるという冗談にもなっている。

オリヴェイラの狸爺ぶりが伺えるのであった。