山田尚子『聲の形』についてのメモ
・何回か見ないときちんとした分析はできなさそうなので、今回は初見の印象をメモ程度に書きなぐっていく。
・今回は難しいことやってるなと思った。『たまこラブストーリー』がストレート速球だったのは本編との関係もあるだろうけど、今回はTVシリーズはないわけで、題材の困難さもあってか難しいことをしている。カットも詰まり気味。
・主観ショットが冴えまくるというか、内に閉じこもっていて人の顔をまともに見ることができない主人公なので、いじめられて以降は、ほとんどのカットで話してる相手の顔が切れていたり、そもそも足下しか映っていなかったりする。高低差や身長差の違いによっていろいろ変わっているのだろう。
・あと、シネスコの画面で顔をはしっこに置いて、それを交互に映したりするので、近くにひっついているようなシチュエーションでも人物が同じ空間にいるように見えない。カット毎の連続性を担保するような編集やカットに乏しく、人と人が同じ空間にいることを保障するレイアウトや切り返しに乏しく、それが全体的にどうしようもない不安定さを生んでおり、なおかつ夢っぽさ、あの世っぽさが出ていた。
・そのせいで対面している二人の人物を撮るときに、手前の人物を舐めて映すというオーソドックスなレイアウトが最後のシーン以外でほとんど使われていない。なので、対面しているところでは横からのレイアウトが増えていく。あるいは内側からの切り返しが増えていく。そして、あの二人がついに結ばれるシーンで初めてあのように王道な切り返しが出てくることが驚きにつながる。
・そしてやはり山田尚子はエロい。青春ストーリーのテンプレを性的なイメージで脱臼させていくところにはとても共感する。今回も、やはり男女を川に突き落とす。『たまこラ』でも突き落としていた。水はまず二人を「いじめ」という同じ環境に突き落とすためにも使われていたし、さらにはこの男女、落ちるのは水だけではない。硬い地面にも落ちるのだ。顔を見れない主人公の主観ショットは、身体のパーツを切り取るフェティシズム溢れるレイアウトになり、それが無意味なポルノイメージになる。なぜここまで倫理的に危ういところに性的なイメージを入れることに執着している(ように見える)のか。観覧車のなかで起きたことを盗撮した映像の、太ももと足を舐めるようなアングル。川に落ちたときに見える足。
・小学生パートの西宮硝子は、犯罪的な肩と背中の細さで、あの声でしゃべるので、こんなのシネコンでやっていいのかってくらいエロかった。そして、それ以外の場面でも無意味なポルノイメージの挿入! あのつかみ合いの喧嘩から、女が上になるマウンティング態勢での攻撃。ほとんど根拠ないんだけど、情念の強さと相まってちょっと増村やブレッソンを思い出したなあ。
・ディスコミュニケーションとしか言いようのない、西宮硝子の「ごめんなさい」の連呼。そして、押し通される許し(なのだろうか、そうではなく、ただそのように内面化するしかなかっただけのように思える。その欠点は植野に指摘される)、そして好意の力強いプッシュ。ここまでいくともはや情念だ。
・何度も入れ替わるキャラクター配置の面白さは京アニっぽくて、実はこの映画はこのフォーメーションの面白さにかなり救われているんじゃないかと思った。「いじめ」という事件を軸にして、力学的にいろいろとフォーメーションが変わっていく。ここがこの映画の抽象性になっていて、単にいじめについて語っているのではなく、いじめを軸にした「動き」がかなり作り込まれている。小学生パート⇔現在パートという配置転換からはじまる、衝突と和解のドラマは、めくるめくキャラの役割替えによって造形されており面白い。小学生パートでも、主人公がいじめられる以前と以後ではフォーメーションが変わるし、そもそも西宮硝子がクラスでいじめられるようになるまでのパートでも、キャラクターの配置は微妙に変わっていく。
・ゆづるは、最初は贖罪をしようとする主人公にぐさりと利くような言葉を告げる役目を担っているけど、だんだんとそれが小学生時代の主人公と西宮硝子の関係になっていく。つまり、「自分が悪い」で相手の蛮行を許していくスタイルと、それを気持ち悪がってなおさらきつい言葉をかけていくというあの関係である。ゆづるは母親と主人公との関係では積極的にコミュニケーションの潤滑油役を担ったりと、その後いろいろ頼ったり頼られたりと面白く展開していく。地味ながら、お祖母さんがあの家族のなにかストッパーのようなものになっていて、それが抜けた途端にものすごく危うくなる、というのは典型的な演出なのかもしれないが巧みだ。
・永束のキャラは面白い。その場面で支配的な感情のトーンよりも、永束のキャラのほうが強いから、こいつにリアクションさせるだけで場面の雰囲気を変えることができる。かなり便利なキャラなんだろうなと思う。
・植野は、どうしても西宮硝子を好きになれないというキャラで、そのことで西宮の問題点をあぶりだしていく。ああ、京アニはこういう女性の冷たさを出させるとリアリティがあるなあという気がする(こういう女性が確かに実在するという感情的なリアルさ)。
・川井みきは、たぶんこの映画で一番の嫌われどころだろうと思われる。八方美人な性格と、自分の落ち度から目を背けてしまう自己愛の強さをああいう風に描かれると確かに好印象を持ちにくい。しかし終盤で、その自己愛の強さこそ西宮硝子に欠けていたものだったという使われ方をする。この意外なフォーメーション!
・終盤ではやっぱり走る。『たまこラ』もそうだけど、僕は山田尚子監督作品の「走り」をいいと思ったことがない。アニメーションには詳しくないので、まあこの感想は的外れなのかもしれないけど。どうしても凡庸に映る。
・声の形=振動・波紋というのは具体的な細部にもあったけど、全体的なイメージ作りにもなっていて、あと常に地鳴りが響くような音響のつくりにも反映されていた。会話は意識的に曖昧になっていて、字幕がないことはとても重要だと思いました。
・波紋・落下・振動・水・花火といったイメージと、具体的なメロデイにならない地鳴りのような音響がひとつになるクライマックスは鮮烈だった。
・主人公と西宮が再会するところでも、手すりを振動が渡って気づくよね。
・風景が感情に走りすぎているんじゃないかと思った。結構、前からそういう印象は抱いているんだけど。