小説の描写について
よく、職業小説家や、小説を書いている人が、「ある時期からずっと自分の行動や見たものを脳内で描写し続けている」ことを告白することがある。オーウェルもエッセイでそのようなことを書いていた。つまり、デカルト劇場である脳内の小人が、目の前の世界を忠実に描写していくということを生活の中で実践しているらしいのである。しかしながら、これはどうにも自分の場合には当てはまらないのだ。というのも、描写という行為は基本的に立ち止まることを要求するからだ。一旦立ち止まって、描写する対象をよく見て、正確に書く。これが描写の基本であり、ほとんど書くことの基本と言ってもいいくらいだと思う。しかし、そのためには立ち止まる必要がある。もちろん、絵画を描く行為が運動を持つように、描写という静止したように見える作業にも運動や時間は存在する。しかしいずれにせよ描写には、それを成立させるためのしっかりした足場であるとか、正確に見るための時間的な猶予であるといったものが必要になるのだと思う。とりわけ正確な描写、というものを心がけるのであれば確実にそういったものは外せない。だからこそ、脳の中で描写を延々と続ける 小人を飼っている人々の話というのはよく分からないでいる。生活のためにはある程度動き続ける必要があり、そうなるとわたしの場合、頭の中に住んでいる小人が吐き出すのは描写ではなく、ひとまとまりの言語化された思考だからだ。わたしにとって小説は描写ではない。描写の訓練も必要だがそれは散文の集積の中ではごく一部でしかなく、よい小説というのは、ひとまとまりの言語化された思考が、即興的なカオスの中で絶妙に統御されつつ、白紙の上に文字として現れてくる瞬間に書かれることになる。そのために小説家は、思考が沈殿するのを待つのだ。つまり、これから自分の書く小説に対して、どのような輪郭線を与えるのか、どのような要素を与えるのか、どのように全体のバランスをとっていくのかということを準備しつつ、最初の一筆を下ろす瞬間をいつにすべきか悩んでいる時間のことである。あるイメージがあり、それを形にするのだが紋切型にはしたくなく、出来ればそのひとまとまりの言語化された思考形式を損なわずにそのまま表現したいという、あの悩ましきも豊穣な時間である。プリプロダクションからプロダクションへと踏み出す瞬間まで、わたしの脳内の小人は「意識の流れ」をぐるぐると吐き出しながらも保持しつつ、その時を待っている。この保持をしているあいだに、素晴らしい(と自分には思えた)散文が生まれ、しかし記録されることなくどこか虚空へと消えていってしまった経験というのは、小説や文章を書いたことのある人間なら誰でもしたことのある経験だろうと思う。往々にして長い時間をかけて苦労して書き上げた小説よりも、ふと書き出したら止まらなくなり、気がつけば出来上がっていたという小説の方が出来が良い。もちろんいずれにしても推敲がなされるわけだが、一発で書けたところは大体において出来がよく、一発で書けなくて苦労するところというのは、結果的に上手く書けずに終わることが多いように思う。大体、書いてみたらわかるが、文章というのは思考の流れをそのまま放り出すようにして書くことが最も自然である。書かれつつある世界に、地理的な制限を加えず、時間的な制限を加えず、書かれる対象の即物性から離れて自由に書いていくと、紙面には書かれた対象ではなく、むしろ自分自身の身体や思考というものが表れてくる。映画のように舞台を限定し、時間を限定することが作品の強度を生むのではなく、むしろそこから離れることでより本質的なものが見えてくるのかもしれない。わたしにとって、わたし個人には関係のない、人工的なエンタメを書くのは、まったく不自然なことのように思われる。不自然だからこそ面白いところもあり、ここのところはそういった不自然さを楽しんでホラー小説でも書いている。10月には完成すると思うし、完成させなければならない。