ジョン・ワッツ『コップ・カー』

ジョン・ワッツ『コップ・カー』を見た。カメラポジションなど色々と頑張っているのはわかるのだが、どうしても面白いとは思えなかった。

この映画の退屈さは安定した感じにあるのだと思う。というか、正確に言えば、僕がその安定した感じに退屈した。

例えば、パトカーを盗むことになる少年二人の関係性だ。一見、髪の短くて勝気そうな少年の方が、髪の長くてなよっとした少年の方をリードしていて、なよっとした少年の方は「お前もやれよ、いくじなしだな」みたいな雰囲気になしくずしで流されていって悪戯行為に巻き込まれていくんだけど、本当の修羅場になったらむしろなよっとした少年の方のタフさが前に出てくる。こういう単純な対比と反転で88分の映画に興味を持ち続けることが僕にはできない。
(しかし、一般に映画に出てくる人物の関係性は、顔の選び方でその描写が終わっているのだと思った。顔のない小説とはかなり勝手が違う)

あるいは、悪役であるケヴィン・ベーコンと、トランクに閉じ込められていた血まみれのおっさんの弱さだ。こちらに悪役として強いキャラが立てばあるいは面白くなったかもしれないのだが、この二人は悪役というよりも、むしろただ状況に翻弄されるおっさんでしかなく、単に大人であり、単に悪行に手を染めているというだけで、少年たちを脅かすのであり、それは悪役としての強さとは無関係だ。

良識派市民であるおばさんの介入も、あっけなくケヴィン・ベーコンに利用されて終わる(もっと言えば作り手に利用されて終わる)。

悪役が強いわけでもなく、かといってかき回す少年たちが悪ガキとして強いわけでもなく、どちらも微妙であり、微妙であるがゆえにリアルではある。

ただ、その個々のパーツの弱さとリアルさが活かされるよりも、むしろ予定調和の物語や、安定した撮影を破綻させないために組織されているように思えて、面白くなかったのだ。

微妙さを徹底するなら、ケヴィン・ベーコン、トランクのおっさん、良識派市民のおばさん、二人の少年、のいずれかを共犯関係として乗り越えさせていくような脚本もあっただろう。対立関係の微妙さにもとづいた共犯関係だ。ここが結局、きれいに切り分けられてしまっている。共犯関係の予兆のようなものはあるのだが、本格的に踏み込んでいくことはない。

演出もほとんど予想できてしまった。例えば同士討ちしたかのように見えたケヴィン・ベーコンが、窓ガラスにベタっと手をつくところ。トランクのおっさんを助けたあと、しばらくケヴィ・ベーコンの視点でしか語られないという演出(実は二人は……)。少年たちが銃で窓を割るところの段取り。テンプレでしかないと思う。

ロケーションも、地平線の見えるだだっ広い草原に、ぽつんと少年たちがいる、というようなシンプルな点と線でできていて複雑さが生じないようになっている。このようなシンプルさは、別の要素で複雑さを出すか、あるいは別の要素で強さを出すために使われないかぎり、欠点にしかならないだろうと思う。

もちろん、細かい点でいいところはある。広くてシンプルなロケーションで距離感を伝えるために、様々な小道具を使って位置関係を教え、あるいはロングショットを的確に使って距離感を教えるようなところはいい(ただ、こういう的確さが最大限の効果を持つような強い対立関係や強いサスペンスがない)。

または、少年たちのいかにもな知識不足(石に指紋がついてるからバレるかも!?とか、自動車ってどうやって止めるの?とか、銃ってどうやって撃つの?とか)などは「あるある」などと思ったし、彼らの銃器のとりあつかいの危なっかしさにはハラハラさせられた。

そして最後、覚悟を決めて100km/hで自動車を飛ばしていく少年の表情を捉えた窓ガラス越しのショット(銃痕があるのもいい)、孤独に光って鳴り響くパトカーのサイレン、その眼前に広がる暗闇、それが唐突になくなって街の光が差してくるところ、無線機からやってくる女性のボイス、それにこたえる少年の声。

ここは素朴に感じ入るところがあって、この映画がどういうところを目指していたのかがわかる。ただ、いいと思ったのは最後だけなのだった。