ペドロ・コスタ『ヴァンダの部屋』/目には目を、無為には無為を


ペドロ・コスタの『ヴァンダの部屋』を見たが、違和感の残る体験だった。

ヴァンダの部屋』はポルトガルリスボンにある、再開発のために解体されつつあるスラム街を映した作品だ。そして、メインの被写体となるのは、部屋に引きこもったヴァンダという女性である(わたしは未見だが、ペドロ・コスタの前作『骨』に出演したらしい)。

ペドロ・コスタはこれまでの撮影チームを解体し、ほぼ一人でこのスラム街に入り、2年に渡ってデジタルカメラで撮影しつづけて、結果として得た膨大な映像を編集して本作を完成させたという。しかし、多くの人が作品から受ける印象とは異なり、ヴァンダという女性の私生活に入り込み、日常風景を撮影していったわけではないという。ペドロ・コスタとヴァンダたちは規則正しく撮影に取組み、どうすればよりよい映画ができるかを話し合い、演出プランを練っていったらしいのだ。

この作品には、スラム街全体を俯瞰するような視点が存在しない。地図的な意味においても、人間関係的な意味においても、ストーリー的な意味においても存在しない。解体がどれだけ進んでいるのか、また街に住んでいる人物がそれに対してどのように反応し、これまでの生活をどのように営んでいるのか。そういった疑問点は、その場その場を撮ったショットの連なりから、かろうじて推察されるばかりである。「なるほどこのスラムは解体されつつあるのか」、「ヴァンダは薬物をやっているのか」、「ヴァンダは咳をしているから体調はよくなさそうだ。薬物と関係あるのだろうか」、「ヴァンダは部屋から出ないのか」、「ヴァンダには妹と母がいるのか」、「ヴァンダの姉は刑務所にいるのか」、「ヴァンダは野菜を売っているのか」などということを少しずつ把握していくことになる。

ヴァンダの部屋には、絶えず解体工事の音や、人々の会話、生活音などが入り込んでくる。そして、窓というよりも壁にあいた穴といったほうが正しいようなところから、光が差し込んでくる。

個々のショットには連続性がなく、ワンシーンワンショットの長回しで、空間的に連続しておらず、時系列順で並べられているのかさえわからない。そのせいで、出てくる人間たちはどこか他人と切り離されているように見え、この世界に孤立して存在しているような感触を与えられている。

人々はカメラをほとんど意識せず、普段どおりの生活を過ごしているように見える(確認したなかでは一度だけ、カメラスタッフの方を一瞥したような瞬間があった)。しかし上記でも述べたように、ペドロ・コスタの発言を見ていくと、実際には双方向のプロダクションのようなものが行われたようで、ある種の信頼関係を前提とした私生活の隠し撮りのようなものではないらしい。したがって、自然にカメラに視線がいかなかったわけではなく、コスタなりヴァンダなりの演出方針としてカメラのほうを見ていない可能性は十分にある。

また、ヴァンダが働いておらず、大体のところ一日中ベッドの上で無為に過ごしているらしい、ということも重要だと思われる。労働にいそしんでいる場合、その点からヴァンダの生活を整理し、組織することが可能だからだ。

以上の特徴をまとめると重要なのはこの3つだろう、(1)空間的・時間的・説話的な連続性を把握することが困難な編集で投げ出される映像、(2)画面外(オフの空間)から聞こえてくる物音、(3)役者がカメラを意識しない固定アングルのワンシーンワンショットで捉えられた私生活

そういった形式やプロダクションもあって、わたしたち観客は『ヴァンダの部屋』を見ながら、まるでヴァンダたちと一緒にいるかのような不思議な距離感に包まれる。普通の劇映画やドキュメンタリーにあるような、「被写体を外側から一方的に見る」という距離感の関係は成立しない。そのかわり、ペドロ・コスタがそうしたように、ヴァンダたちがその身を浸している、無為で断片的な時間にわたしたちも強制的に身をやつすことになるのだ。

しかしながら、そのような作品として『ヴァンダの部屋』を考えたときに、わたしとしては一つの疑問点が生じるのだ。

このように無為で断片的なヴァンダという人間の生をとらえるにあたって、どうしても2時間や3時間といった線的な時間をスクリーンに集中して過ごさなければならない、映画というメディアを選択することはふさわしいのだろうか? ということだ。

たまに、「映画に連続性はない」とか「編集で作ってるだけだ」とかいわれることがあるが、逆に、映画の連続性を編集で解体していったときに残るのは、わたしたち観客の身体こそが連続性の根拠だということである。皮肉ながら『ヴァンダの部屋』を見ながら、どう繋いでも、繋がってしまうのだなと思った。もちろん人間の身体が知覚する連続性もまやかしなのだろうが、わたしたちの脳は、錯覚であれなんであれ連続性を知覚することができる。

したがって、どれだけ連続性を排した編集をこころみたとしても、見る側の肉体とそこに蓄積される時間が存在するために、個々のショットの生々しさはヴァンダという人物や、このスラム街の解体の全体像を把握するための、輪郭線になっていく。あるいは、わたしたちの脳や習慣は、ヴァンダの身体性よりもその輪郭線を描くことに努力してしまう(そして努力が実らず、結果として飽きる人も出てくる)。

もちろん、完全に支離滅裂な編集で映画を組織することもできるだろうが、そこまでしてしまうと、そこに人間の生や、感情といったものが宿ることもなくなるだろう。その意味では『ヴァンダの部屋』には、当然ながらリアリズム的な連続性はあるともいえる(突然、ヴァンダの顔が裂けて、物体Xであったことが判明する、といったようなことは起きないし、スラム街の外に出ることもないようだし、時間が大きく経つこともないように思われる)。このスラム街の生活の中にいるという、身体的な連続性は感じられるのだ。

しかしながら、そもそも映画を見るにあたってわたしたちが普通用いるものは、ヴァンダたちのような最底辺の人々の過ごす無為な時間ではなく、むしろ規則的に労働を営み、スケジュールを調節し、それによって得られたわずかな余暇をあてるような、労働者階級の忙しく落ち着きのないものだ。

したがって、休日に時間を作って映画館へ行き、座席に3時間座ってスクリーンに集中することが『ヴァンダの部屋』の正しい鑑賞方法だとは思われない。全体を俯瞰する視点を欠いているがために、一つ一つのショットとその場で出会い、関係を作らなければならない映像作品を、勤勉に3時間も見ることは、ヴァンダたちの無為で断片的な生からは程遠いように思われる。

したがって、『ヴァンダの部屋』を見るために必要なのは、むしろ無為で断片的な時間である。できれば50インチ以上の大きな画面があることが望ましい。そして、3連休、4連休といった長い休日を取得し、そこに一切の予定を埋め込まないでおこう。そうしてできた無為な時間を活用してだらだらと部屋を一歩も出ずに生活をしながら、バックグラウンドビデオとして『ヴァンダの部屋』を延々と流すのだ。

ヴァンダたちの生活音や会話はずっと聞こえてくる。しかし、必ずしも画面を注視する必要はない。そして、家事をしたり、食事をしたり、ぼーっとしたりしながら、ふと画面を見たときにあるショット。それを見て、向き合い、これはなんだろうと考え、また次のショットを見るのだ。飽きたらまた、無為な生活に戻ればいい。

このような見方のほうが、さらに『ヴァンダの部屋』の生に感覚的に接近できるように思う。

わたしは、『ヴァンダの部屋』をしばらく見てからこのようなことを考えたので、実験的に、色々と作業をしながら見ることにしたのだが、そのようなときにふと画面に映ったヴァンダを見たときにこそ、むしろその場その場でしか存在しない、無為で断片的な生というものに触れられた気がした。わたしたち労働者には、一日中部屋に引きこもっているヴァンダとは、決定的に時間に対する感覚が違うのだから、まずそこを揃える必要があるのだというのがわたしの感想だ。

あるいは、美術館などによくあるインスタレーションで延々と『ヴァンダの部屋』を流すということも考えられる。ふらふらと美術館に入ってきた観客が、ふと『ヴァンダの部屋』のあるショットと遭遇する。それはヴァンダが咳き込むショットかもしれないし、薬物を吸っているショットかもしれない。

実際、ペドロ・コスタインスタレーションを行っているようだ。

もちろん、このような鑑賞方法は、ペドロ・コスタがヴァンダたちと丁寧に作り上げたショットを、ごっそりと捨てていくことに他ならない。

この点について、ペドロ・コスタの言葉を調べていくと、あるインタビュー*1では『ヴァンダの部屋』がクラブで上映されることについて「何がいけないの(笑)? 人が観に来てくれればいいんじゃないかな。」と答えている。一方で、映画を撮ったり見たりすることについて、撮る側だけではなく見る側にも一定の責任を持つことを要求し、上記のインタビューでは以下のように述べている。

だから観客も同じくらい責任を持ってくれると信じている。映画について知らなくても、私たちが作った時のように、同じくらい責任を持って見てほしい。私たちだってベストを尽くして作った。特に役者たちが。だから観客もできるだけベストを尽くしてほしい(笑)。観客も責任を取らなければならない。映画を見るのは大変だ。作るのと同じくらい、見るのは大変なことだ。写真を撮るとか、銀行で金を扱うのと同じくらい。映画を作るのと同じくらい難しい。だが見る忍耐力がないなら、その人はさっさと帰るべきだ。


このような、作り手と鑑賞者に共同責任を求める姿勢は、撮影者と被写体で共同して映画を作っていくスタイルとも一貫しているのだろう。

以上の言葉を前提にすると、楽をするためにそうするのはともかく、ヴァンダたちの生をより生々しく感じるために、バックグラウンドビデオとして鑑賞するのは、許されそうな気がする。たぶん。


ヴァンダの部屋 [DVD]

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