トム・マッカーシー『スポットライト 世紀のスクープ』


『スポットライト 世紀のスクープ』を見た。とてもいい映画だった。『ゾディアック』以来の調べ物ハイ映画だ。

特に面白いと思ったのは、この映画が、カトリック教会というシステムの問題をボストンという街に限定し、内側から扱っているところだ。

普通、ある問題を解決するためには、その問題の起きた世界のシステムが正常に機能している必要がある。例えば、悪党が懲らしめられるためには、その土地や国の警察と裁判所が正常に機能している必要があるのだ。

しかしながら警察や裁判所が腐敗しており、世界のシステムが正常に機能していない場合、問題を解決するためには、そのシステムの外部にいる人間や、より上位のシステムが必要となってくる。たとえば西部劇のひとつの典型として、悪党に支配された街を解放するために外からやってきた素性の知れない男が必要となる。

ジョージ・オーウェル『一九八四年』などのディストピアものと呼ばれる作品がしばしば解決不能な困難に行き当たってしまうのは、世界のシステムそのものが正常に機能していないのみならず、そのシステムがあまりに巨大で、世界を覆いつくしているがために、そのシステムの外部や上位というものを想像することさえ困難になってくるからである。

そして、本作で扱われているカトリック協会は、歴史的にも地理的にも巨大なシステムには違いないが、舞台をボストンに限定することによって外部を作り出すことに成功している。『ボストン・グローブ』紙にやってきたユダヤ人の編集長は、西部劇における、外からやってきた素性の知れない男である。

しかし、実際にシステムに挑むことになるのは、そのシステム内で生まれ、育ってきた、『ボストン・グローブ』紙の社員となるため、事態は少し複雑になる。

そのユダヤ人編集長に「なぜもっと調べないんだ?」と問われて、カトリック司祭による性的虐待事件についての、同紙の「スポットライト」チームによる調査がはじまる。そうして、デヴィット・フィンチャーの映画『ゾディアック』を思い出させるような、地味で、根気強い調査活動の末に、ある巨大な陰謀が少しずつ見えてくるのだが、カトリック教会はあまりにも根深くボストンの人々の生活に入り込んでおり、それを取り除くことができないほど巨大なため、調査はその過程で多くの妨害を受けることになる。システムに対して、内部から挑戦する作品にはおなじみの展開である。

システムは市民の生活の内部に根を下ろしているので、その闇を暴いていくと、内部にいる者は友人や家族とも衝突し、その関係を破壊しなければならないのだ。

しかしながら、彼らが対峙しなければならないのは、友人や家族だけではない。そこには、過去の自分自身さえ含まれる。ここまで徹底しているのは面白い。もちろん、ユダヤ人編集長とは違って、ボストンに生まれ育った彼らは、システムの内部にいるからだ。

聖職者による虐待被害者ネットワークの一員であるサヴィアノは、「前にも『ボストン・グローブ』紙に資料を送った」といい、事件を内々で処理するために調停を請け負っていた弁護士は、彼らの義憤に対して、「前にも『ボストン・グローブ』紙に資料を送った」と半ば怒りながらいうのだ。

システム内部にいる人間は、無謬ではいられない。彼らの義憤は、かつてこの事件に気がつかなかった過去の自分自身にさえ向かなければならない。なぜ、いままでそこに悪があったことを集団で忘却していたのか?


撮影や演出も品のある仕事だった。トム・マッカーシーには職人技しかないと思っていたけど、その抑制的なスタイルがセンセーショナルな題材と合わせると面白くなる。

人物ごとに微妙に異なる喋り方のトーン・テンポや、電話越しのボイスの素晴らしさ、緊迫した場面での注視しなければわからないほどのズームアップ、縦構図でのピントによるレイアウトづくり、ここぞという場面でのクローズアップ、音楽的な編集。こういった職人技が静かに、そしてじりじりと展開を盛り上げていた。調べものでここまでちゃんと盛り上げるのはすごい。

撮影監督のマサノブ・タカヤナギは『ブラック・スキャンダル』でも人物の顔を魅力的に撮っていて、撮影監督の映画という側面も大きいのだと思う。