強いショットとはなにか(について書いていたら脱線していった)

近頃、映画や小説を楽しんだあと、その内容についてあれこれ分析的に考えることに興味が薄れてきた。
(こう書くと語弊があるように思えるが)

それと反比例するように気になって仕方がないのが、まさに映画を見ているとき、小説を読んでいるときに、自分自身の内側でどのようなことが起きているのかという疑問だ。というのも、作品そのものは単なる物質なのだからそれだけを考えても意味はなくて、それによって自分自身がどのような作用を受けるかをまとめて考えなければならず、そのためには映画を見ていたり、小説を読んでいたりするときに起きていることを知らなければならないからだ。

脳の機能としてどういうことが起きているのか、という観点ももちろん気になるのだが(書籍を読んだりはしているのだが)、主たる関心は、わたしの内面で起きていることだ。いわゆる自由意志というものが存在しないらしいことは脳科学により明らかにされつつあるが(SF作家ピーター・ワッツによればもはや疑う余地なく明白らしい)、仮にメモ帳のようなものであれ、どういうものであれ主観的体験というものは存在するように思える。

ハードウェアとしての脳ではなく、もうちょっと曖昧であやふやな主観的な体験というものを扱っている分野といえば、わたしの知る範囲では現象学ということになるので、ここいらでちょっと勉強するべきだろうと考えた。

手はじめとしてアンリ・ベルクソン 『意識に直接与えられたものについての試論』(ちくま学芸文庫)を読み始めた。世間に流布する映画論にも影響を与えているので、いつか読まなければならないと思っていたところだった。

読んでいくと、映画に関連して、面白い部分があった。以下引用してみよう。

これらの匂いや光がわれわれに弱きものと思えるのは、まさに、それらがわれわれの努力でもって強化されることを要請するからである。逆にわれわれは、ある感覚がわれわれの側に喚起する自動的反応の抗しがたい運動、もしくはそれがわれわれに刻印する無力をもって、極度の強度を有した感覚をそれと認める。耳元で撃たれる大砲の音や、突如として灯されるまばゆい光は、一瞬のあいだわれわれから人格の意識を取り除いてしまう。(51頁)

ここには、わたしたちが「頭を空っぽにして楽しめる映画」というときの、「頭を空っぽにして」という言い回しの意味が具体的に書かれているように思える。また、(自分を含め)シネフィリーな人々が「強いショット」と呼ぶときに出てくる強度の概念も、ここに具体的に書かれているように思える。

わざわざ面白いところを探さなくても、美しいところを探さなくても、自動的に目に焼きつき、脳に焼きつくような、自動的な反応を引き出す映像というものが「頭を空っぽにして楽しめる映画」であり、「強いショット」であるということだろう。

ショットが弱いとか、強いとか、わたしたちは言うけれども、ここには強度という概念が本来持っている、計測して数値化できるような性質があるわけではない。「強い」というのはただの比喩でしかない。比喩でしかないけれども、わたしたちはそこに強度という概念を持ち込み、そういうものがあると思い込んでさえいる。人間の脳は、比喩を文字通りに捉えてしてしまうのだ。これは著作『意識に直接〜』のなかでベルクソンが繰り返し言っていることであり、実際にここにあるのは量的な違いではなくて、質的な違いだということになる。

傑作というのは、傑出した作品であって、それは他の作品と計測可能な、連続した場所にあるわけではない。ストーリーのレベルが2で、撮影が4で、役者が3で、美術が4で、という風に数え上げていったときの総合点で比べているわけではない。そのような量的な比較を外れたところに、傑作というものはあり、強いショットというものはある。そして、面白くない作品というのも、量的な比較のうえで面白くないわけではない。だから、ここを直せばいいとか、ここを削ればいい、ということは言いにくい。

というのは、作品はそれ自体としてあるわけではなく、それを鑑賞する人間とセットで存在しているのであり、また同時にそれを作る人間ともセットで存在しているわけで、仮にある作品を手直ししようと思ったら、それを作った人間の、作っているときの主観的な体験をある程度把握する必要があるのだろう。

ちょっと脱線したようだ。

とはいっても、上の引用部で書かれている「耳元で撃たれる大砲の音」というのは感覚としては強すぎるのではないかと思う。そんなことをされてびっくりしない人間なんていないじゃないか。芸術・娯楽の世界でここまで強い感覚はあまり問題にされないように思える。例えば「見た人間に死をもたらす映画」などといった、鑑賞者に一意的な反応をはたらきかける芸術作品についての妄想はよく聞くが、鑑賞した人間が本当に一意的な反応をしてしまうのであれば、実際にはそれはもう芸術ではないように思える。本当に「全米が泣い」てしまう映画があるとすれば、それはもう映画ではないなにかだ。兵器として使えるのではないか。

芸術・娯楽の感覚は、それよりもずっと強度の弱い領域で起こっている。「強いショット」も、「耳元で撃たれる大砲の音」に比べればとても弱いものだが、好事家の間では共通了解を得られる程度には強い感覚である。「泣ける映画」も、すべての人を泣かせることはできないが、ある一定の共通了解をもつ人たちなら一遍に泣かせることができるかもしれない。弱いからこそ胡散臭いものだし、弱いからこそ、自分のなかで感覚をいじっていって、好みを変えることもできるし、それはつまり今まで弱い感覚としか感じられなかったものを強い感覚として感じることができるように訓練することだってできる、ということになる。

そういう弱い感覚において物事が起きていることが、フィクションの価値なのではないかと最近思うようになった。批判や反駁を受けたら、簡単に雲散霧消してしまうような弱いものだからこそ、誰にでも作り出せるし、この強迫的な世界からの逃避場所になりえる。

もちろん、ニセ科学や、カルトの問題があるように、このような性質にはいいことばかりではない。フィクションが人を救うこともあれば、滅ぼすこともあるだろう。だがまあ、程度問題はあるにせよ、その個人にとってニセ科学やカルト宗教がいいことなのか悪いことなのか、ということも価値判断の問題であり、つまりフィクションの領域になるのだと思う。
(ちらっと言ったが、「程度問題はあるにせよ」という部分にわたしはかなり力点を置いているつもりだ。結局、ケースごと判断されるしかないので、カルトがいいとは言うつもりはない)。

映画の分野だとホラー映画において、「耳元で撃たれる大砲の音」に近い感覚を利用しているものがあるように思える。来るぞ、来るぞ、来るぞ、、、と緊張感をさんざん煽って、いきなり大きな音をさせて観客を驚かせるやつだ。劇場でホラー映画を見ていると、つまらないつまらないと思っているのに、何度も何度も同じ方法で怖がらせられてしまう映画に出くわすことがある。そういうとき、わたしは脳のスイッチでも押されているような気分になる。

願わくば映画は、それよりももう少し曖昧な領域で、感覚を操作してほしいものだ。

意識に直接与えられたものについての試論 (ちくま学芸文庫)

意識に直接与えられたものについての試論 (ちくま学芸文庫)