石田敦子『魔法少年マジョーリアン』、矢部嵩「中耳炎」


石田敦子『魔法少年マジョーリアン』を読んだ。こういう漫画が大好きだったことを思い出した。女っぽくていじめられている男の子と、その子をいじめている悪ガキが一緒に巨乳美少女に変身して敵と戦うことになるという話。淫獣の名前がジェンとダーでジェンダーになるんだけど、仮にジェンダーフリーな社会だとこの話は成立しない。「女っぽい男の子に欲情してはならない」という抑圧があるから、みなは葛藤を抱えることになって、それが3巻ほどの漫画を支えられる程度の長さを持つことになる。ついでにいえば、テーマとしてジェンダー的なものは持ち込まれているんだけど、漫画そのものに注がれているエネルギーは明らかにエロスに傾いていて、その点で生々しいものになっている。僕はジェンダー的なものも頭で考えたものではなく、生々しい憎悪として作り手に宿っていたら、それはそれで面白い作品を生む素地になるだろうと思うけど、今回はそうではない。

あと、弟大好きな変態姉さん(学校でいじめられている)とか、出てくるんだが、これも近親相姦はダメという規範あってこそ生じるエロスだなあと思った。谷崎もこういう感じで、抑圧どんとこいである。

つい谷崎に話が跳んだので、ついでに述べると、僕が谷崎潤一郎原作の増村保造の映画になんだか居心地悪いものを感じるのは、この抑圧に関して彼ら二人の作家性が全然違うからだ。谷崎は前述したとおり、対象に触れられないことがエロスを喚起する。一方で、増村はストレートなコミュニケーションを好んでいる。『氾濫』を見てもわかるとおり、悪人であっても堂々とその浅ましい内面を告白し、そこになぜだか清々しささえ漂っている。増村はコミュニケーションが抑圧されることからエロスを生じさせる作家ではなく、オブジェとしての人体からエロスを喚起するタイプだろうと思う。あるいは、エロいというかただひたすらに明け透けで実も蓋もない。


矢部嵩「中耳炎」。『魔女の子供はやってこない』の没原稿。魔女であるぬりえちゃん視点なせいか、矢この作家のなかでもかなりぶっ飛んだ部類に入る。『魔女子』は人間である夏子視点からのストーリーしかなかったけど、当初のプランではこの「中耳炎」が入る予定だったので、視点の統一は結果論のようだ。「絵のない絵本」という説明あるとおり、漫画のコマ割りみたいなのの中に絵のかわりに文字が埋め込まれている。文字に向かないことをやらせる矢部嵩の極北のような短編だった……。

文字に向かないことをやらせる、というのはいいことだと思う。通常の使用方法からは全然違うところを狙うと、当然ながら言語としては不得意ゾーンにはなってしまうだろうし、そういうけもの道は舗装されていないので先人の積み上げてきた技術もあまりない。「上手くない」と言われてしまうリスクはあるけど、「上手くない」からいいのだと思う。「上手い」と判断できるということは、それくらい一定の型にはまっているということで、同じレベルの技術をこれまでも見てきた人からすると「上手いけど面白くない」という判断も致し方ない。これはなにも芸術の尖った部分にかぎった話でもなく、エンタメの世界でも、観客に新しいものを提供してウケようとするとそういう舗装されていないところに突っ込んでいって「上手くない」ものを作る必要がある。


魔法少年マジョーリアン(1)

魔法少年マジョーリアン(1)