クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』を見た。


イーストウッドの新作見てきました。なんだかんだ毎回見てるね。


それで思ったのは、「やっぱり仕事ってよくないね!」ってことですよ。よくないわ健康とかに。

思えば、『アメリカン・スナイパー』のブラッドリー・クーパーも、仕事で戦争やってたから病んでしまったわけだし、『ハドソン川の奇跡』のトム・ハンクスだって、仕事だからあんなにねちねちと事故の原因を訊かれたわけだし、ほんと仕事に関係すると英雄もたまったもんじゃないよねと。

その点、本作の主役陣は、まずヨーロッパ観光中にたまたまテロ事件に出くわしたわけで、スペンサー・ストーンも、アレック・スカラトスも、アンソニー・サドラーもみんな仕事でやってたわけじゃないんですよ。ストーンとスカラトスは一応軍人なんだから、営業時間外の仕事といった側面はあるのかもしれないけど、サドラーにいたっては大学生ですからね。

正直、前評判でかなり変わった映画だと聞いていたせいか、拍子抜けするところがあった。確かに実際にあったテロの再現映画としては、肝心のテロ場面が少なく、ヨーロッパ観光の場面にかなりの時間を割いているという特徴があるんだけど、その理由は作中で十分に説明されていると思う。(あるいは単純に、実際の事件自体が短く、それを拡張するのにも限界があっただけなのかもしれないし、原作の本がそもそもこうなっているのかもしれない)。

ある環境で育った人間が、ごく自然に育っていくなかで、保守的な価値観を獲得し、軍人になる。そして、その人物が旅行中にテロ事件に遭遇し、ごく当たり前のこととして、犯人に立ちふさがる、という形での英雄の描きかたは『アメリカン・スナイパー』などと共通している。

また、柔術の練習場面が、実際のテロ場面で生かされる。あるいは、直接関連するわけではないが、止血の訓練があって、実際のテロの場面でも止血をする。そして、基地で発砲事件があったとき、上官の指示に逆らってでも、隠れずにいつでも抵抗できるように待機する性格である。こういったエピソードの数々は伏線として機能しているし、それは説話としてそれほど奇妙なことではない。

こういった人間がいて、それがこういう環境に放り込まれたら、反射的にこういうことをするだろう。その積み重ねがテロの場面に結実するにすぎない。

それは、仕事として訓練されたプロフェッショナルな身振りというわけでもなく、単なる「素」の行動とか、これまでの人生でたまたま培ってきた積みかさねが、たまたま役に立ったという感じなんだよね。

スペンサー・ストーンは、空軍に志願するときに「人生ではじめて努力した」という人間であったし、せっかく志願した部隊には、視覚に関する先天的な問題で落第。そのあと配属された部署でも、なんとなくやる気になれないまま落第。アレック・スカラトスも、戦争にやってきたのはいいものの、戦争らしい戦争はなく、暇そうにしていることをストーンとのチャットで告白している。

だからこそ、映画自体も、それ自体が合目的に映画の展開にかかわるわけではない、だらだらとしたヨーロッパ観光にかなりの時間を割くことができる。いや、むしろ割かないといけないのだ。なぜなら、人生とはそういうものだし、すべてが合目的というわけにはいかないからだ。

ヴェネツィアが特にいいんだけど、前にヴェネツィアを映画で見たのってイオセリアーニの『月曜日に乾杯!』だったし、ほんと仕事したくねーなー、ってときはヴェネツィアにいくべきなのかもしれない。

こういう傾向は衣装にもあらわれていると思う。終始ラフな格好をしているサドラーに対して、子供のころのストーンとスカラトスは迷彩シャツを着ている。それは二人の友情を示す演出でもあるし、一方でその後の二人の進路を示してもいる。しかし、あくまで遊びの範疇である。さらに、バイト中にやってきた海兵隊員との会話でも制服はひとつの演出になっているのだが、ストーンは制服からその人物が海兵隊だと即答できなかった。そして制服を着たストーンとスカラトスはこれといった活躍をしない。むしろ、肝心のテロの場面で彼らはみなシャツ姿をしていて、勲章を受けるときもそうだった。

アメリカン・スナイパー』で、ブラッドリー・クーパーはしだいに観客と視界を共有できなくなっていき、砂嵐のなかに消えてゆく。本人はいわば伝説に上書きされて、いなくなってしまう。

ハドソン川の奇跡』で、トム・ハンクスは分裂する。「サリーがいっぱいいる!」というセリフがあったような気がするし、なにより最後の本人映像のときに、トム・ハンクスが本人とそれほど似ていないせいもあって、まさしく「サリーがいっぱいいる!」のだ。

『15時17分、パリ行き』では、伝説と事実があっけらかんと一致する。オランド仏大統領が演説を述べて、英雄たちに勲章を与える場面では、実際の映像と、再現映像がほとんど違和感なくつながってしまう。

いやー、仕事じゃないよね。

でも、こういう構成で映画を撮ってしまい、あまつさえ本人起用みたいなウルトラCが許されてしまうのは、『アメリカン・スナイパー』でも大ヒットを飛ばし、作家性を満たしながら同時に商業的な結果も出すことができるようになった、クリント・イーストウッドというプロフェッショナルが特権的に持ちえる立場というだけのことかもしれない。

それでも、まるで人生の夏休みを満喫しているとでも言わんばかりな三人組に、すごい傑作とかいうわけではなくとも、こちらもつい気持ちよくなってしまう映画だった。