ポール・W・S・アンダーソン『ポンペイ』(2014)
「噴火のどさくさに紛れて殺し合います」
感想を探してネットの海を巡っている時に、どこかで見かけたキャッチコピーなんだが、これが実にいい。こんな言葉を呼び水にすれば世のボンクラ共がせっせと映画館に通ってくれることだろう。もっとも、ラブストーリーに惹かれてやってくる20代、30代の女性は二の足を踏んでしまうだろうけど。
ちなみに自分はポール・W・S・アンダーソンの監督作品は初期の『ショッピング』と『モータル・コンバット』を除いてすべて鑑賞済みである。中でも『イベント・ホライゾン』と『ソルジャー』は彼の最高傑作と呼ぶにふさわしく、真面目に評価している。最近だと『三銃士/王妃の首飾りとダ・ヴィンチの飛行船』が好きで、よく出来ていると思う。「バイオハザード」シリーズについてはノーコメント。毎度毎度見てしまうのだが、何故そんなに自分がこの監督に執着するのかは一向に分からないでいる。そういう立ち位置。
で、件の「噴火のどさくさに紛れて殺し合いします」だが、同じ大虐殺映画でもスピルバーグの『宇宙戦争』みたいに「生きるために仕方なく」という感はあまりなく、かといって「恨み晴らさでおくべきか」という強い復讐心からくる切迫感もあまりなく(設定上・ドラマ上ではあるはずなんだが、不思議とそういう感慨は湧かない)「邪魔だしむかつくしこの際さくっと殺ってしまおう」という火事場泥棒的な側面が強い。
なので、ディザスター映画らしい大虐殺はあっても、主人公たちの人間性は健全な範囲で踏みとどまって失われることはなく、善人は善人らしく、悪人は悪人らしく、それぞれの死に方を配してもらっている。主演のキット・ハリントンの、野性味と色気がほどよく感じられる終始無表情の表面的顔面力は最後まで保たれる。英雄の映画である。
代わりにヒロインのエミリー・ブラウニングは最初こそ良家の娘らしく綺麗に整えられて出てくるんだが、噴火が始まるとそこがどんどん汚れていって、多分化粧も落ちて、最終的にはなんだかジャングルから這い出てきたメス猿に見えなくもないちんちくりんへとたどり着くので、ある意味こちらは楽しかった。
キット・ハリントンの方は幼少期に自分の住む村を焼き払われ、皆殺しにされ、死体の山から這い出て、死体がクリスマスツリーの飾り付けのように吊られた木を見てしまい(一瞬だったが、ここの一枚絵は中々見応えがあった)、その後はグラディエーターとして見せ物小屋の中で暮らしてきたので、彼が噴火してからも変化しないのはむしろ既にして人間性というものがすっかりなくなっていたからなのかもしれない。
■見つめ合う男女
そんな二人の出会いの場面が割に良い。映画の中で恋に落ちる男女を演出しようと思えば大概の人はその男女を出会いがしらに見つめあわせるだろうし、もちろん映画にはそれだけで恋を演出できるだけの力があるのだが、アンダーソンはそこに微妙にアクセントをつけている。
シチュエーションは、ポンペイに移送中のキットら奴隷たちの横を高貴な身分であらせあれるエミリー・ブラウニングの入った馬車が通るというところから始まる。ところが溝に車輪がはまったせいで馬が一頭倒れ、馬車は止まり、苦しむ馬を見かねてキットがそこに出ていく。と、こんな感じだ。そこで初対面のキットとブラウニングは二人で協力して苦しむ馬を殺めることになるわけだが、その後立ち去ってからふとキットが思い出したかのようにブラウニングを見る。ブラウニングも彼を見る。従者に「今まであんな風に男を見つめたことはありませんね」と言われるほどに、である。
ここでこの二人は初めて見つめ合う、ということはつまり、共同作業*1をしている最中はろくすっぽ相手の顔も見ずにいることが分かる。すなわち、キットはあくまで苦しむ馬を楽にしたいという気持ちでいっぱいだったということが分かるのだ。だから、ブラウニングとの出会いの偶然性がさらに高まっている。
二度目の見つめ合いは、夜のことになる。貴族の女性たちに(夜の相手として買うかどうかを)見定められている最中のキットと、そこを偶然に発見するブラウニング。剣奴を管理する男の指示に従ってキットが向きを変えると、ここでも偶然にして、ブラウニングと見つめ合うことになるのだ。もっとも、この時はブラウニングの父親に中断され、再び二人が自分たちだけの時間を持つのはその後馬で脱走してからになる。その次は闘技場において、不安そうに見つめるブラウニングと彼女のために戦うとでも言わんばかりのキットの視線の交わりがある。ここに至ってはもう、十分すぎるほど二人の間に特別な関係が芽生えていることが伺える。そして、噴火が始まってから、ブラウニングの救出に現れたキットは彼女を落ち着かせるために両手で頬を包み込み「おれの顔を見ろ」と言い聞かせる。
そして映画のクライマックスになると、そんな二人が背後に迫ってきている火砕流を背景にしてやはり見つめ合う。世界が終わるという事実から目を背けるかのように互いの顔だけを見て、口づけをし、呑み込まれていくところで終わるのだ。
■物語ること
個人的に胸に来たのは、何を隠そう闘技場の場面である。殺し合いにはストーリーがつけられており、それは「勇敢なるローマ兵がケルト人を打ち倒す」というものであった。ケルト騎馬民族の生き残りで、実際にあったその殺戮の場に居合わせたキットは当然激昂するわけだが、彼はいざ殺し合いが始まるなり共に鎖でつながれた剣奴たちをまとめ上げて逆襲し、むしろローマ兵役を演じた剣奴たちを返り討ちにする。
するとそこで、同じ様にローマに取り込まれた観客のポンペイ人たちは、ローマの旗をへし折るパフォーマンスまでやってのけたキットに対して声援を送るのだ。そこではもう物語は「侵略するローマに立ち向かう人々」というものに読みかえられている。ここはとても感動的だ。フィクション内で演じられるフィクションを通じて語られる程度に複雑な物語を、すべて血沸き肉躍るアクションを通じて語っているところを見ると、だからこそ自分はポール・W・S・アンダーソンの映画を見るのだという気分にさせられた。
自らの物語は自ら語れ、というのがイーストウッドの『チェンジリング』やウェルマンの『西部の王者』といった映画の教訓だと思うのだが、自分はなんというかこの手の話に弱い。
虐殺映画ぶりは実際に劇場に行った人には語るまでもないだろうし、まだ見ていない人には言葉で語るよりも実際に見てくれと言った方が誠実だろうと思う。
アクションシーンはもうちょっと引いて欲しかった。特に剣奴の闘いは観客席の位置から眺めるものなのだから、切り取るのであればやはり全身が映るサイズで切り取られるべきだろう。アンダーソンは全身が映るサイズを基本にしてアクションを撮る印象があったけど、今回はちょっと寄り気味のサイズが多い。全体としてはやや満足。『三銃士』の方が少し上かな、という感じだ。
ちなみにウェス・アンダーソン『グランド・ブダペスト・ホテル』もほぼ同時に見ており、こちらは『ポンペイ』よりもさらに楽しい映画体験で、今のところ2014年ベストなんだけど、同じアンダーソンでもウェス作品の語り難さと言ったらなく、雑誌『ユリイカ』では蓮實重彦が対談をしているということもあり、感想は諦めることにした。