レイ・ブラッドベリ『刺青の男』

2013年に刊行された、新装版の『刺青の男』を知人からプレゼントされたので読んでいる。
全部読んだので、これで完成。


「プロローグ 刺青の男」 枠物語である。この短編集の収録作は、この「刺青の男」の全身に刻まれた動く刺青という設定。

「草原」 空飛ぶ車も、宇宙開発が盛んな未来も実現しなかったけど、本作に出てくる「ハッピーライフ・ホーム」はスマートハウスという名前で現代に成立している。つまり、ブラッドベリの文明批判ものとしては珍しく、というか偶然にもガジェットが古びていないのである。そのガジェットである、住む人の世話をしてくれる「ハッピーライフ・ホーム」は当然のことながら子供たちの世話もするので、これまた当然のことながら親のお株が奪われてしまうという話になる。とあるグロテスクな結末を迎えるが、人の世話ができる家ごときにどうしてそんな超常的なことができるのかの説明がなく、やっぱりそこはブラッドベリ。幻想性が強い。

「万華鏡」 ブラッドベリについて言えば、ベスト短編である。宇宙飛行士がロケットから宇宙空間に投げ出される作品の基準となってもいい。小笠原豊樹訳で読むのは初めてだけど、この「万華鏡」が一番いいかも。「最初の激動の瞬間、ちょうど大きな缶切りであけられたように、ロケットの横腹がぱっくり裂けた。」という一文目からしていいですよね。空気のない宇宙では、自分の手足がもぎ取られることにさえ気づけないほど何も音がしないのに、仲間との通信だけ聞こえていて、それが少しずつ途切れていく。この極限状況には、まるで肉体がなくなってしまったかのような酩酊感があって、それがいい。……ところで、「死んだらみんな一緒」、「死は人間を匿名的にする」というテーゼに対して本作は「充実した人生を送った人間の死と、そうでない人間の死はやはり違う」という素朴な反論を用意しており、やっぱり素朴ながらこの反論は正しいのかな、と思ってしまったところで最後の数行にロマンを込めるという構造の作品である。顔なき死者に尊厳を与えるというのは感動的だし関心のある主題だが、やはり自分の興味は宇宙飛行士の遭難そのものにあると気が付いた作品。

「形勢逆転」 黒人が火星で労働させられているうちに、地球では白人が核戦争で滅びかけてしまい、その最後の一人がようやっと火星にやってくる。それを見に行こうぜ、という黒人たちのお話。寓話とはいえ地球にまるで黒人と白人しかいないような書き方はエスノセントリックな感じがする。やってくる白人をリンチしようと逸る黒人たちを諌めるムードで作品が展開していくが、白人が許されるためには、核戦争で滅亡するまで追い込まれなければならなかった、という恐ろしい話としても読める。

「街道」 とうとう核戦争がはじまったが、そのことを知らないエルナンドという男の視点から短編を進める。直接的な描写は最後までないが、車で通る人々は「戦争が始まったんですよ!」と教えてくれる。大状況を知ることのできない一個人からみた世界規模の災厄という点では、『宇宙戦争』のように川を死体の群れが流れるのではなく、大急ぎで逃げる車の群れを描写するので、コメディの雰囲気である。

「その男」 宇宙船の隊長は憤慨する。なぜなら自分たちが長旅で苦労してこの星までやってきたというのに、誰一人として歓迎してくれないからである。しかし、それも無理はない。なぜならこの星には「あの方」が降りてきたのだから……という話である。ちょっと感想を言いにくい。

「長雨」 既読なのでパス。

「ロケット・マン」 邦題が違ったので、最初は既読だと気づかずに読んでしまった。途中からもしかしてこれはあの作品の原型となった作品なのかな?と思いはじめたが、まだ気がつかなかった。しかし、お母さんがお父さんに「もう一度廻ってみて」と言ったところで気づかないわけにはいかず、ようやく既読だと分かった。印象としては、前に読んだ『ウは宇宙船のウ』の訳の方が好き。

「火の玉」 帝国主義時代やら西部開拓時代やらのキリスト教の布教活動を、宇宙開拓時代に置き換えてやってみせた作品。未知の惑星に宇宙飛行士がやってくる、という冒険小説的な枠組みをそのまま「未知なる罪があるかもしれない!」と期待するファンキーな神父とその同僚たちに適用しているので、ちょっと新鮮な楽しみがあった。ともかく本作の主人公であるペレグリン神父はユーモアがあって魅力的な登場人物だ。火の玉のようにしか見えない生物(?)のために教会を作るあたりで本人もちょっと自分のやってることが狂気じみていると感じたのか不安になってみせる程度には分別もある。最後には火の玉の正体が明かされるというベタながら外さない展開。

「今夜限り世界が」 まったくもって静かで平凡な、世界終焉の前日を描いた作品。世界終焉と言っても、みなが「世界が滅ぶ」という内容の夢を見ているという話を夫婦がするだけである。非常に短いが、静謐な終わりというのはどこか「万華鏡」を思い出させてよい。

「亡命者たち」 既読なのでパス。

「日付のない夜と朝」 常に何もなく同じ状態が保たれる宇宙環境で、宇宙船乗組員の一人が発狂してしまう。宇宙飛行士にはよくある話らしく、ヒチコックという不幸な男はどこか2ちゃんまとめサイトにたまに現れる、小学生じみた哲学談義をする男性に近い妄言を繰り広げてこちらを散々うんざりさせたあと自暴自棄な行動をとるのである。ブラッドベリの宇宙ものは、舞台を宇宙以外に変えても成立してしまうものが多いが、こういうのはどうなんだろうね。
 
「狐と森」 悲惨な未来世界を逃れて、過去の世界を優雅に慮呼応する夫婦と、それを捕えにやって来る政府の刺客の攻防を交えられる逃避行。この夫婦が絶対に最後には捕まってしまうことはどんな読者にとってもお見通しなんだが、そこそこ捻ったプロットと、刺客でさえ過去の世界の贅沢品を味わい、ノスタルジックな思いに浸っているところがオチを含めて印象的に描かれ、ブラッドベリらしい作品として仕上がっている。

「訪問者」 〈血の錆び〉という難病に侵された患者の一人である主人公は、あたかも結核患者を集めたサナトリウムのような風貌で描かれる火星の僻地にて静かな死を待っている。病状が進んだ者にとって何よりもの娯楽は睡眠である。しかし、主人公はまだそこまで悪化しておらず、なんとなく地球を恋しがっているようである(ディックもそうなんだが、宇宙に出つつ地球を恋しがる者というモチーフはアメリカのSFにやたらと出てくる。映画にしろ何にしろ、故郷というのが移民国家アメリカの永遠のテーマなんだろうか)。そこに、テレパシーを用いてあらゆる風景や出来事を疑似体験させられる青年がやってくるという話。結局、その青年を患者たちが奪い合い、その過程でその青年こそが損なわれるという道徳的な結末がやってくる。

「コンクリート・ミキサー」 地球への侵略を企てる火星人たちと、芸術趣味者なインテリでありリベラルな価値観を持つ主人公の火星人がそれに反抗する様子を描くのが前半。火星人はどうやら己が火星人であるという理由だけで地球侵略を企てているようであり、それに対して「ある時期から火星人の侵略は地球人に阻まれるような小説が多くなった」と言って警告を放つ主人公の様子はコミカルで面白い。しかし、実際に侵略してみると、火星人たちが受けるのは地球人たちからの熱烈たる歓迎である。そして、その歓迎にこそ身を滅ぼされていく火星人たちがその後描かれることになる。酒、車、女といった20世紀アメリカ以降の現代風俗を堕落したものとして激しく糾弾するブラッドベリの筆致は非常にらしいが、とはいえ爺さんの説教という印象もぬぐえず、悪くないがそこまで好きではない。もうお気づきの方がいるだろうが、わたしは道徳譚は好きではない。好きではないが、そのような問題意識によってブラッドベリが旺盛に活動し続けられ、鋭敏な表現力を得られるというのであれば、それはそれで否定するつもりもない。いずれもブラッドベリという作家の一部であり、重要な側面である。

「マリオネット株式会社」 神経質で脅迫的な経緯から結婚した妻から逃れ、木星へと旅立つつもりの男。そして、あまりにも強い愛のために自分を一時も離してはくれない妻を持つ男。その二人が、現在はまだ違法である、自分自身そっくりのロボットを購入することで恐るべき女たちから逃れ、夢を叶えようとする。しかし、二人とも思惑通りにはいかず、自分たちが頼りにした技術そのものによって疎外されるという結末を迎える。前から思っていたが、ブラッドベリは女嫌いなんだろうか。いや、モチーフとして実にありふれているだけか。

「町」 宇宙船が降り立った惑星の町が、実はかつて人類に滅ぼされた種族の作った憎悪の乗り移った町だという話。相手が人類かどうかを確かめるために、まず訪問者を厳密に計測していくあたりが面白い。最終的に宇宙飛行士全員が改造され、大量破壊兵器を乗せて地球へと戻っていくというホラーめいた終わり方をする。宇宙飛行士遭難ものとしてやや惹かれた。

「ゼロ・アワー」 地球侵略を企てる宇宙人と一緒に侵略ゲームを遊ぶ無邪気な子供たちと、なんとなく違和感を覚えつつもはっきりと自覚しなかった両親たちがいて、両親たちが最後には後悔をするはめになる。アンファンテリブルもので、オチはよく出来ていると思う。アンファンテリブルということでラファティを思い出した。

ロケット 既読なのでパス。

「エピローグ」 枠物語のオチのつけかたとしては非常にありがちなのではあるが、思わず「そのオチかよ!」と叫んだ。