映画・小説の本懐


よく映画や小説に「内容がない」と言われる時がある。大体の場合その「内容」とは、物語だったり、テーマだったり、感情移入だったりといった、なにがしかその鑑賞者が理解し、納得することのできる紋切型のことを指していることがほとんどで、映画なり小説なりの「内容」というものがそもそも何を指すのかについて客観的に考察されていることは少ない。

そういうケースに限らず、ある作品についての評価が対立するとき、主に争われることが多いのはその作品の本懐がどこにあるのか、ということだろうと思う。それなりにフィールドワークをしてきた人間として、実際にそういう場を目にすることは多い。

批判者は言う、「どこそこが拙い」と。

擁護者は言う、「いや、この作品の本懐はそこにはないのだ」と。


しかし、映画や小説の本懐がどこにあるのか、という話は、その人が日頃から映画やら小説やらに抱いている価値観によって大きく左右されることほとんどである。それどころか、しばしばその価値観は、その場その場で擁護したいと思った作品に都合よく合わせられ、揺らぐのも日常茶飯事である。かつて自分が批判した相手が使っていたロジックと、まったく同じロジックを自分が擁護したい作品のために使っていることに気がついている人も多いだろう。

小説には多くの要素が含まれているし、その機能のさせ方も作り手によって大きく異なる。映画について言えば、もっと多くの諸要素と、多くの担い手がかかわっており、さらに複雑だと言えるかもしれない。だとすれば、この中から、本懐たりえるものを選び出すのは容易でも、どれが本懐なのかという議論をすることは、まあ容易ではない。


たとえば、ベトナム戦争を題材にとった映画があるとしよう。さて、その映画が何を本懐としているのか。本当にベトナム戦争について描いているのか、それともベトナム戦争という素材を通じて何か別の抽象的なことを語っているのか、それとも本当はベトナム戦争について描きたかったのだが、結果的に何だかよく分からないものが出現してしまったのか。そのあたりは実にさまざまである(意図はよく掴めないものの、ベトナム戦争を題材にして、結果的によく分からないものが出現してしまったケースとして『地獄の黙示録』という有名な実例が存在する)。

映画や小説を、物語を滑らかに語る器とみなすのか、作者の言いたいことを表現する器とみなすのか、それとも表現する器そのものに本懐があるとみなすのか、あるいはそれらの複雑な組み合わせとみなすのか。それは鑑賞者だけでは決められないことだし、作者が意図したことや、実際に出来上がった作品のかたち(これが作者の意図と一致すると考えられがちなところがそもそもの誤解である)によって左右される。

ある作品のかたちを構成しているとある要素が、素材に過ぎないのか、あるいは本質的なものなのかは区別しがたい。「素材なんだ」「代替可能なものなんだ」と言ったところで、実際に出来上がっている作品を無視してそういう議論をすることには一抹の罪悪感がある。


しかし、私は――ここでようやく血と肉ででき、神のようにすべてを相対化することはできず、何事かの当事者であり、一つの価値観を持った私が登場するわけだが、少なくとも小説に関して言えば、それを構成している99%の諸要素は素材に過ぎず、その本懐はもっと抽象的でこの世には存在しないものとしてある、と考えている。

一部の例外を除いて、小説はフィクションとはいえど、現実に存在し、現実とよく似ている素材を使わざるを得ない。しかしながら、小説の本懐がそうであるとは限らない。そうである必要もない。だから1%の何かがそこに込められているのだ。かといってその1%は現実と完全に切り離された、完全無比なるフィクションというわけでもないだろう。現実とフィクションは完全に対立するものではなく、相互に溶け合っているものだからだ。むしろ小説をよく読む人は、あるいは小説を読まずとも頭のいい人は、現実がいかにフィクション(この世には存在しないもの)によって支えられているかを自覚しているところであろう。法律や国家やイデオロギーといったものがこと典型的な例である。

だからこそ私たちは、フィクションを通じてこそ、本当の人生や、本当の価値、本当の意味、本当の世界、というものを実感することができることがある。純粋な遊戯もまたそれはそれでいいものだが、私は一匙でもいいので何か本当のものがそこに含まれていて欲しい。まあ、これも素朴な芸術観だろうか。

というわけで、次回から伊藤計劃虐殺器官』の本懐とは何だったのか、という話をしてみたいなあと思う。

あれは確かに現実に根差したなにがしか本当のことを語った小説だとは思うが、別に対テロ戦争について語った作品でも、監視社会の恐ろしさについて語った作品でもないと思うなあ、という話である。

どこか別のところで語ったことをベースに色々と付け足していくつもりだが、その時の記録が残っているわけでもなく、また『虐殺器官』についても忘れていることが多いので、ちょっと時間は掛かるだろうけど、絶対にやっておきたかったことなので、いよいよ着手しようと思ったのだった。


 そういう予告編でした。