石川博品の小説『メロディ・リリック・アイドル・マジック』、通称メロリリを回顧する
この間、引越し準備のために本棚を整理していて、石川博品の小説『メロディ・リリック・アイドル・マジック』、通称メロリリを発見し、ついページをめくっていると、2年半ほど前に発売されたときに読んだ記憶がよみがえってきた。
当時、読んでいる途中に連想したのが同じ著者のネルリ2巻で(最も好きな作品だ)、歌えや踊れやのお祭り騒ぎがまどろっこしい現実をかき消すところがいかにもだった。
なによりも小説のなかに詩が埋め込まれている。これがネルリ2巻でなくてなんなのか。
実際、石川博品も言っている。
そういうわけで『ネルリ』2巻にはたいへん思い入れがあるのですが、今度の『メロリリ』はその再現といいますか、あの祝祭的なムードを日常生活の中に持ってくることを目指して書きました。
— 石川博品 (@akamitsuba) July 18, 2016
一見して、作品構造がハレムリーグやネルリシリーズに似ている。要するに、石川博品の得意とする王道の青春小説である。
- 現実⇔夢
ただ現実を模倣するのではなく、むしろ社会に流通しているものから反転した価値観を示すことができるのがフィクションのいいところだと思う。フィクションの中では、反転された価値が、厳しい現実を魔法のように解決してしまう様が描かれることがある。
しかし、特に予算も俳優も必要とせず、ただ書いてしまえばそのとおりになる小説において、その反転に説得力を持たせるためには、まどろっこしくて醜悪な現実を作品の構成要素として取り込むことが欠かせない。
石川博品はその点に自覚的な小説家のように思える。
〈耳刈ネルリ〉シリーズでは、レイチやネルリの幸福な学校生活に常に暗い影を落とし続ける厄介な政治状況が造形されていたし、〈後宮楽園球場 ハレムリーグ・ベースボール〉シリーズでも、切磋琢磨する後宮の野球少女たちの裏にあるのは政治であり、主人公が後宮にやってきたそもそもの動機は皇帝暗殺である。
そのあたりに転がっていそうな醜悪な現実がまずあって、そこから切り離されたフレームとして学園であるとか後宮野球リーグであるといった箱庭が存在している。それは一時的であり、局所的な空間だけど、そんなところでしかフィクションは成立しないということなのだろう。
今回、その切り離されたフレームになるのは沖津区である。
なぜかこの作品の舞台となる沖津区ではアンダーグラウンド的なアイドル市場が成立している*1のであり、それに入れ込む人々はLEDと呼ばれる国民的アイドルグループを嫌っている。LEDを見たら殺せ、というセリフさえ出てくるこのLEDはあからさまにAKB48のことなのだが、ビジネスとして成功し、理性化され、社会的に認められたアイドルが果たして信仰に値するのか。いやしない、というところからこの物語ははじまっていくのである。
このように沖津区では、全国区で支持されているアイドルグループを「殺せ」と口走るような、一般社会とは反転した価値観がはびこっている。
- 反発する主人公たち
フィクションのお約束として、ある世界に足を踏み入れる主人公という紋切型がある。いきなり異常な世界に入っていくと読者も混乱するし、フィクションを通じて、それも俗な物語を通じて礼賛される価値観があるとすれば、主人公はむしろそこから遠いとこから歩きはじめることで、徐々にその価値観に近づいていき、変化しなければならないのだろう。変化がなければ時間的経過も生じないので、物語が動かせないからであるし、なにより小説は様々な社会的文脈を帯びた言葉によって構成されるからだ。
だから、下火は元LEDであり、沖津区では偽物呼ばわりされるLEDアイドルがいかに努力し、厳しい競争に晒され、その地位に立てているのかを知っている。
そして、ナズマは特殊な体質から、音楽そのものが苦手で、よって根本的にアイドルへの熱狂が理解できないでいる。
このような連中を沖津区の価値観で染め上げるためには、なにかしらの天啓を受けて貰う必要がある。
- ナズマにとっての天啓
それは、アーシャの家で行われるメロリリの最初のライブだ。ここでは主にナズマの視点から、宗教体験のようなシーンが描写される。音楽を聴くと現れる謎のパターンも、この場面以降はむしろ肯定的なものとして描かれるようになる。
客観的には他の登場人物といっしょに集まっているのにもかかわらず、意味付けとしては下火とナズマの二人だけのシーンとして演出される。恋愛というものは公的な空間と私的な空間を分けることによって成立する、ということだ。『ヴァンパイア・サマータイム』にもあったようなロマンチックなシーンである。
既に序盤の世界°のライブで、ナズマと下火が群衆の中で二人きりになる場面はあったけど、その反復でありつつ、よりロマンチックに強化されていることがわかる。舞台と客席で分断されつつも、視線と涙でつながれた天啓が降りてくるのだ。
- トラウマ。彼岸⇔此岸。歌詞。
主要キャラクターには、過去のトラウマが埋め込まれている。
下火にとっては死んだ父親。
国速にとっては、LEDのトップアイドルを務める元同級生のなちゅん。
ナズマのトラウマは中学時代だが、本作ではあまり語られない。
面白いのは、この作品でLEDに行ってしまうことに彼岸の色がついているところである。序盤で、「血祭り」というグループが歌う曲の歌詞には、元メンバーがLEDに行ってしまった悲しみが歌われる。
僕のかわいいあの人を
LEDが連れていった
僕の心のセンターに
ぽっかり大きな穴があいた
終盤、『ワールドフェイマス』の歌詞に込められた国速の気持ちを読み取った下火が、「好きな人がアイドルになるのは死別よりもつらい」と考える。
父親の死も、好きな人がアイドルになったことも、等しく「いま・ここ」から切り離された彼岸についての話だが、ここでは微妙に差異がつけられている。
- まるで魔法のようだった
価値観の反転は、終盤のメロリリのライブシーンで頂点を迎える。
いくら沖津区が現実から切り離されたフレームだろうと、小説で使われる言葉は日常的に使われている言葉をひろってきたもので(下火のネットスラングがまさにそうだけど)、魔法や天啓というものには向いていない。
だから詩的言語が使われることになる。
メロディ・リリック・アンド・チューンの歌う曲が紙面に並び、そこには前述した国速の過去のトラウマや、下火の過去のトラウマが埋め込まれ、スパークしている。ここがよくあるトラウマの解消シーンとして抜群に感動的で、政治的な問題を演劇の流れで解決してしまい、ストレートに愛を歌い上げたネルリ2巻を思い出したのだ。
フィクションだからこそ、何の社会的価値もない路上での素人アイドルのライブパフォーマンスが、どこか崇高なものへと転じるのである。
このようなことを実行する石川博品の小説作法は、ある意味、教科書的なものだと思う。実際、読了当時に知人と「この文章に傍線をつけると国語の問題が作れる」という話題で盛り上がったものだ。石川博品の方法論は非常に理論的で、それゆえにどんな題材にもある程度応用可能な抽象性があるが(石川博品の言語感覚がしばしば独特だと言われるのも、そういった操作を可能とする文学的教養の分厚さにあるだろう)一方でそれが職業作家としての彼を追い詰めている節もある。また抽象度が高いがゆえに、ここでいうアイドルは、ロックバンドなどのショー・ビジネスいずれにも代替可能だという批判も聞いた。それらの点について今思うことはあまりない。
ただ、ネルリ2巻の愛読者だった自分にとっては、『メロディ・リリック・アイドル・マジック』は嬉しい贈り物だった。この記事を書いた動機はただ、その感謝の気持ちを伝えたいということ以外にはない。
メロディ・リリック・アイドル・マジック (ダッシュエックス文庫DIGITAL)
- 作者: 石川博品,POO
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*1:作中の沖津区アイドルは地下アイドルと呼ばれることを嫌うのだが、ではなんと呼ぶべきなのか。私はそもそもアイドルに疎いのでよくわからない。作中論理からいえば単にアイドルと呼べばいいのだろうが、アニメを見る感じでは「スクールアイドル」という言葉が相応しそうだった。ストリートという言葉も思い浮かんだが、実際のところ日本でストリートがどれほど現実味のある言葉なのかはわからない。