フリッツ・ライバー『闇の聖母』読書メモ

以下すべて早川書房から出ている文庫本準拠。

「すくなくとも、音楽にはひとつだけ超自然的な力があるよ。それは浮揚できる――空中を上昇してゆけるんだ。むろん言葉にだってその力はあるが、音楽ほどじゃない」
「どうしてそう思うの?」彼女は肩ごしにたずねた。
「漫画だのコミックだのからさ。言葉を上昇させるためには、例の風船型の吹きだしってやつがいる。だが楽音は、ピアノにしろなんにしろ、楽器からそのまま上昇してゆけるんだ」(原文ママ)(21ページ)

ベッドから見ると、そこにはおなじように空白の壁――外の二つの高層ビルのうち、手前の建物の壁が見えているだけだった。これらすべてが、いかに不気味な建物たちの幻想曲をなしているかという想念が、ふと彼の頭をよぎった。それらに関するド・カストリーズの不吉な理論。スミスがサンフランシスコを……ええと、そう、死の巨大都市と見ていた事実。ニューヨークに蝟集する高層建築へのラヴクラフトの恐怖。ここの屋上から見るダウンタウンの摩天楼群。コロナ・ハイツから見たいらかの海。そしてこの、暗い廊下と、あくびをしているロビーと、奇妙なダクトと物置と、黒い窓と隠れ穴のある古びた建物そのもの――すべてはその一部だった。(111ページ)

アルトナン・アルトー『ヘリオガバルス あるいは戴冠せるアナーキスト』読書メモ

墓なき死者、しかも己れの宮殿の便所のなかで護衛の兵士に喉をかき切られて殺されたヘリオガバルスの骸のまわりに、血と糞便の激しい循環があるならば、彼の揺り籠のまわりには精液の激しい循環がある。ヘリオガバルスは誰もが誰とでも寝ていた時代に生まれた。

大好きな書き出し。こういう書き出しから小説をはじめられたらいいよね、と思って何度も読んでしまう。

プルースト『失われた時を求めて』読書メモ ♯1


読了までに時間がかかりそうなので、逐一メモにして残していく。
以下すべて岩波版の『失われた時を求めて』1巻より引用。


われわれのまわりに存在する事物が不動の状態にあるのは、それがそれであって他のものではないというわれわれの確信のなせる業であり、つまり、それらを前にしたときのわれわれの思考の不動性が、それらを不動の状態に置いているのかもしれない。とはいえ私がこのように目覚めるとき、わが精神は私がどこにいるかを知ろうと必死にあがくけど徒労におわり、すべてが、事物が、土地が、歳月が、まわりの暗闇のなかをぐるぐると旋回する。私の身体は、しびれて身動きできない場合、疲労の具合から手足の位置をつきとめ、そこから壁の向きや家具の位置を割り出し、自分のいる住まいを再構成し、それがどこなのかを判断しようとする。身体にやどる記憶が、肋骨や、膝や、肩にやどる記憶が、かつて寝たことのある部屋をつぎつぎに提示してくれるのだが、そのあいだも身体のまわりでは、さまざまな目に見えない壁が、想いうかべた部屋のかたちに合わせて位置を変えつつ、暗闇のなかを渦のように旋回する。(30ページ)

無意識的記憶がどういうものかをわかりやすく説明してくれている。


習慣とは、腕は立つが、じつに仕事の遅い改装業者というべきで、まずは何週間にもわたる仮住まいでわれわれの精神を苦しませる。それでも精神からするとこの業者が見つかったのはありがたいことで、かりに習慣の助けがなく、精神だけの手立てでは、いくらあがいても住まいが落ち着けるものにならないのである(35ページ)

ところが人間というものは、人生のどれほどささいなことから判断しても、全体が物質でできているわけでもなく、請負契約書や遺言書のように全員から同じように理解されるわけでもない。われわれの社会的人格なるものは、他人の思考の産物なのである。われわれが「知り合いに会う」と言っているような単純な行為でも、一部は知的行為にほかならない。われわれは目の前にいる人の肉体的外観のなかに、その人にかんする知識をすべて詰め込んでいるから、その人について想いえがく全体像のなかで間違いなくいちばん大きな割合を占めているのは、そうした知識なのだ(56ページ)

私が若かりしときの数々の愛すべき誤りを見出すこの最初のスワンは、そもそも後のスワンと比べると、むしろ同じ時期に私が知ったほかの多くの人に似ている。(57ページ)

すると、このような文学的関心から離れ、それとなんら関係なく、突然、とある屋根や、小石にあたる陽の光や、土の道の匂いなどが私の足をとめ、格別の喜びをもたらしてくれた。それらが私の足を止めたのは、目に見える背後に隠しているように感じられるものを把握するよう誘われていながら、いくら努力してもそれを発見できないきがしたからである。それは対象のなかに存在するように感じられたから、私はじっとそこにとどまり、目を凝らし、匂いをかぎ、わが思考とともにそのイメージや匂いの背後にまで到達しようと試みた。(381ページ)

備忘録:長編小説を書いた


2018年1月24日に、今現在書いている長編小説の第1稿を書きおえた。

書きはじめたのが2017年1月21日なので、ほとんど丸1年間かかってしまった計算になる。というか、このあと推敲しなければならないので、本当はもっとかかる。

2017年6月時点での達成度はおよそ半分ほどだった。当初は6月末の賞に出す予定だったので、見積りの倍かかったというところだろう。半年で長編小説を書きおえるという、そもそもの計画に無茶があったのだ。

長編小説を書きおえたのははじめてなので、心底うれしい。これまで何十万字と書いてきたのに、長編小説を書きおえたのはこれがはじめてだ。

今回は、原稿のほとんどをEvernoteで管理していた。推敲にあたってはScrivenerを使う予定だが、うまく生活に馴染んでいないのでこれから心配で仕方がない。はたして自分は推敲をきちんとできるのだろうか……。

Evernoteをつかって、これ以上続けられなくなったところで章を切っていく方式が自分と相性がよかったのだと思う。街をぶらつきながらスマホで書くというのが捗るというのも発見だった。自分は少年時代から熊のように室内をうろついて考え事をまとめる癖があるのだが、これが小説を書くときにも発揮されるということなのかもしれない。というか、多動症なんでしょうね。

街を歩くと目からはいってくる情報で、刺激もたくさん貰えるので、それも書くのに貢献してくれた。

ところで、一般に小説といえばその生成物を指すことが多いだろうが、今後の自分の参考のために、まさに生成している過程についても自分なりにまとめておきたい。

長編を書くにあたって気がついたことは、まず、書き方がかなり散文的になったというところだろう。平均的な長編小説は10万字以上から15万字未満くらいのレンジだろうが、ともかくその程度は書かなければならない。とすると、あれこれ悩んでいてはきりがないので、とにかく書くしか方法がない。わたしは、夢想や詩に走ろうとする手をいさめて、即物的に書いていく方法を会得した。プログラムを書くように、文章を書くのである(プログラム書いたことないけど)。

また、ストーリーを書くということは、往々にしてストーリーを書かないということであるとも思った。というのも、シナリオをそのまま言葉にしていけば、それは単なるあらすじか、もしくは古典的な口承の物語といった形式になっていくからだ。回想場面などはそれでもいいと思うが、いわゆる「場」や「シーン」をそんな風に書いていいわけではない。

ストーリーだけでは小説は書けない。もっと様々なものを持ち込まないと10万字という分量は埋まらない。人によってはそれが、辞書的な知識であったり、カタログ的な知識であったり、科学であったり、哲学であったり、無駄話であったりするわけだ。

たとえば、ストーリーを書くときに必要なのは、それを進めると、具体的にどのようなことが起きて、どのようなことが返ってくるのか、という情報である。

これが現代小説ならば、たとえば家庭のリビングを舞台にした場面を書くのであれば、わたしはまずカタログを開くだろう。その家庭の年収がどれくらいで、どのような家族構成なのかを考えたうえで、ニトリや大塚家具などのネットカタログをひらく。そこから、あるべき家具を選択して、リビングを想像しなければならない。そうして、イメージができたところでようやく書きはじめる。とはいっても、それらを本当に描写するわけではない。ほとんどは脳内にしかなく、脳内から一歩も出ないうちにおわる。それは実際の生成物としての小説には残らないが、生成の過程には必要なのだ。

銀行強盗を書きたいのなら、どのように銀行強盗をするのかを知らなければならないし、他のあらゆることについてもそれがいえるだろう。

もちろん、すべてをあらかじめ考えたうえで書くのは不可能だし、今回書いたのは歴史ものなので、調査や想像にも限度がある。こういった情報が邪魔になる場合もあるだろう。自分自身、そういった情報をまったく仕入れずに書いた部分もある。そういった箇所はだいたいにおいて薄っぺらくなるが、どんな話にも省略すべき点はあるわけで、自然とそういう省略すべき点に資料はすくなくなっていく。

散文的で、即物的な書き方とはいったものの、そういった文章を続けているとしだいに官僚的になってくる。手癖にはならないように、資料などを呑みこんだうえで書いたとしても、最終的にはより魅力的で変化に富んだパターンが必要になってくるのだ。

手癖というのは、怖ろしく狭くて単調なパターンのくりかえしなので、続けていくと文章はつまらなくなっていく。それを避けるためには、第一に資料を読む必要があり、第二に詩の心をとりもどさなければならない。長期的にはおそらく、手癖のレパートリーを増やしてく必要がある。

詩の心をとりもどすといっても、それは自分の内側にはないものなので、なかなか難しい。対処療法的には、ラファティを読んだり、『デビルマン crybaby』を見たりした。

また今回、長編を書いたといっても、強引に後半だけでたたんでしまった感触があるので、次に書くときにはもっと構築的に長編を書いてみたいと思った。そのためにはもっと、採用する物語の類型と、主人公の職業などをより綿密に選定しないといけないのだろう。

今回は、陰謀を追うというストーリーラインと、銀行強盗という職業が致命的に合わなかった。あちらを立てればこちらが立たず。もちろん、ジャンルを混交するために意図的にそうしたのだが、自分のおそまつなプロット管理能力にはなかなか荷が重かったようだ。

ロバート・エガース『ウィッチ』

ウィッチ
The Witch
2015年 アメリカ、カナダ 92分
監督:ロバート・エガース

17世紀アメリカ、ニューイングランドの入植地から追放された一家が、痩せた土地で暮らしていると、長女トマシンが生まれたばかりの弟を見失ってしまう。父親は狼がつれていったのだと諭すが、小さな双子の子供たちはそれを魔女のしわざだと騒ぎ立てる。
民地時代のアメリカを舞台にした、かなり本格的な魔女譚で、『ヘルボーイ:捻じくれた男』などが好きな人間にとっては嬉しい。父親、母親、双子、弟のケイレブ、長女トマシン、そして山羊、といった登場人物にそれぞれ意図的な空白があって、「実はこいつ魔女なんじゃないか?」と疑うように仕向けている。作り手が意図しているように、当時の民衆が考えていた魔女の恐怖というものがそれなりに生々しく実感できるのだ。特に、呪いに苦しむ弟ケイレブを救うために家族みんなで祈りを捧げる場面、突然聖書の言葉を思い出せないと言いはじめる双子にはゾッとさせられた。この感覚は、高橋洋の言う「恐怖」と「怪奇」の違いに従えば、「怪奇」に該当するのだと思う。恐怖とちがって、怪奇には、ファンタジーの要素があり、恐怖の対象にとらわれていることを望ましいと思っている側面がある。だから、性の目覚めにより実姉トマシンを意識しはじめている弟ケイレブの前には、スーパーモデルみたいな魔女があらわれるのだ。
低予算だと思われるが、ロウソクの火で照らされた画面には拘りがあり、高解像度のカメラゆえに成立する薄暗い画面は、汚いはずの環境がクリーンに再現される倒錯的なルックになっている(レフンの『ヴァルハラ・ライジング』みたいな)。見応えはあるが、ありがちといえばありがちだと思う。演出・構図・編集はやや単調で、一本調子に感じられた。冒頭近く、村から追放される家族のPOVでながめられる村の景色が、とても狭く、そして最後には扉が閉じられる。この場面のように、審美的な画面の選択が同時にストーリーを語る上での機能をも果たしているような箇所が少ない。また、心理と妄想の飛び交うシナリオなので、内側からの切り返し(肩越しではなく、話している人物の真ん中にカメラを置いて、交互に切り返す手法)が多くなる。この手法で、観客に画面外を意識させて緊張感をもたせるのはいいけど、シンメトリーな顔のアップが多くなって構図に単調さが生まれていると思う。そういえば、主演のアニャ・テイラー=ジョイは『スプリット』でもシンメトリーな顔のアップで撮られることが多かった。


ウィッチ [Blu-ray]

ウィッチ [Blu-ray]

  • 発売日: 2017/12/02
  • メディア: Blu-ray

2017年 読んだ本ベスト

1.ミシェル・ウエルベック『H・P・ラヴクラフト:世界と人生に抗って』
2.ピーター・ワッツ『エコープラクシア 反響動作』
3.蓮實重彦『ハリウッド映画史講義:翳りの歴史のために』
4.木下古栗「表現と書く技法 ――『グローバライズ』創作をめぐって」
5.ロバート・クーヴァー『ユニヴァーサル野球協会』
6.ジェイムズ・エルロイブラック・ダリア
7.保坂和志『小説の自由』
8.高山宏『近代文化史入門 超英文学講義』
9.殊能将之『美濃牛』
10.円城塔田辺青蛙『読書で離婚を考えた』


小説以外の本が増えている気がするので、それはよしとする。今度はもっと離れたい。
トーマス・メッツィンガー『エゴ・トンネル』が積んだままであることに気がついた。



エコープラクシア 反響動作〈上〉 (創元SF文庫)

エコープラクシア 反響動作〈上〉 (創元SF文庫)

エコープラクシア 反響動作 下 (創元SF文庫)

エコープラクシア 反響動作 下 (創元SF文庫)

ユニヴァーサル野球協会 (白水Uブックス)

ユニヴァーサル野球協会 (白水Uブックス)

ブラック・ダリア (文春文庫)

ブラック・ダリア (文春文庫)

小説の自由 (中公文庫)

小説の自由 (中公文庫)

近代文化史入門 超英文学講義 (講談社学術文庫)

近代文化史入門 超英文学講義 (講談社学術文庫)

美濃牛 (講談社文庫)

美濃牛 (講談社文庫)

アンディ・ムスキエティ『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』

IT/イット “それ”が見えたら、終わり。
IT(IT:chapter one)
2017年 アメリカ 135分
監督:アンディ・ムスキエティ

音症の兄につくってもらった紙の船を、弟は排水溝に落としてしまう。このままでは兄に怒られると危惧した弟はその船を拾おうとするのだが、そこにはペニーワイズと名乗るピエロがいて、話しているうちに排水溝のなかへと引きずり込まれてしまった。それからしばらくして学校では、不良グループにいじめられている通称“ルーザーズ・クラブ”の面々が夏休みに突入しており、どうやって夏を過ごすのかを考えている。けれどもビルは、排水溝へと消えた弟ジョージィのことが気がかりで、とても遊ぶという気分になれないでいる。一方で、“ビッチ”と罵られる女の子ベバリーは、図書館に入り浸っているデブの男の子と仲良くなる。不良グループへの反発などもあり、合流していく少年少女たちは親交を深めるのだが、その過程でピエロの悪夢に襲われ、町では子供たちが次々と消えている。これは見過ごせないということになり、“それ”が下水道沿いに現れたことからその住処を突き止める。廃屋に突撃する“ルーザーズ・クラブ”だったが、案の定“それ”と遭遇した結果、エディという少年が骨折し、デブ君が腹を裂かれるなど手酷いしっぺ返しをくらったうえに、内輪揉めによって瓦解してしまう。関係が修復されないまま時間は経過し、そのうちに今度はベバリーが攫われてしまう。この危機に“ルーザーズ・クラブ”は再び集結し、“それ”からベバリーを奪還すべく、再び廃屋へと突撃する。
ティーブン・キング『IT』を原作とした二度目の映画化。なんと27年越しである。悪夢がかなり物質的で、かなり手間をかけて造形されているし、物理的に現実を傷つけるという点で『エルム街の悪夢』を思い出したが、タイトルでの音響の使い方など、ホラーとしてのデザインは同時代の『インシディアス』以降のものを踏襲しているように見える。排水溝を隔ててピエロと会話していた少年があちら側に引きずりこまれ......その水路から外に出たところでタイトルが出る。そのあとすぐ、柵越しの家畜を殺せないので父親に叱られる黒人の少年の挿話に移り、食う側と食われる側のどちらにいられるかは世の中大して保証されていないという説教が、柵というモチーフを通じてとてもわかりやすく提示される。そして、柵から出される家畜たちが、教室から出てくる生徒達に繋げられるので、やはりというか子供たちが次々と食われていく映画になるのだ。少年少女のキャラクターはよく特徴づけられていて、それが家庭環境と通じていたりする。その服装や雰囲気、そしてショックシーンでの悪夢の造形など、プロダクションデザインが相応に練られているし、特にヒロインの顔と髪はとても魅力的でかわいい。脚本には書かれていないような創意工夫をしようという痕跡も見られる。一方で、少年たちが仲違いする場面が段取りくさいとか、ヒロインが特権的に扱われ過ぎてちょっと恥ずかしいとか、青春とホラーが混ざっているせいか登場人物が多いせいか尺がホラーにしては長いとか、エディが病気だらけの男から逃げまどうところや、最後のペニーワイズとの戦闘などのアクションシーンについてはカメラがブレまくっていてとても見れたものではないとか、やたらと斜めに傾けた構図が使われるとか、気になる点もそこそこあった。ナチュラルに子供が人を殺す映画でもある。また、最初にペニーワイズが出てくる場面では、敷居越しに少年が引きずり込まれるのだが、その後の場面もかなりの確率で敷居越しになっているわけで、わざわざ黒人の少年の挿話も入れたわけだから、敷居越しというシチュエーションだけを反復するのではなく、引きずり込むアクションがもっとあってもよかったかもしれないと思った。二段構成はおもしろそうで、続編も見に行くだろうと思う。ペニーワイズは、アメリカへの植民の時期からいて、27年周期で現れるらしく、この設定に一番惹かれた。ペニーワイズとデリー市民の戦いの歴史を描いた年代記があったら読みたい。このあたりの設定を聞くかぎりでは、ペニーワイズは恐怖の象徴というよりもエイリアンかなにかのようだ。SCP財団はこいつを早く収容すべきだと思う。