『岸辺露伴は叫ばない』


荒木飛呂彦によるスピンオフ『岸辺露伴は動かない』シリーズが、奇想短編のプラットフォームとして便利そうだな、と思っていた矢先、『岸辺露伴は叫ばない』という複数作家によるノベライズを発見し、本当に奇想短編のプラットフォームになっていたので読んでしまった。以下はその感想。


「くしゃがら」北國ばらっど
出版社から漫画家に配られた使用禁止リストのなかに見知らぬ単語が入っていた...という導入や、〈ヘブンズ・ドアー〉に干渉できるというネタは面白かった。ただ小説の体裁がかなり怪しく、この話のメイン人物である個性的な漫画家のセリフなどは、ジョジョらしさを無理に押し出そうとしていてかえって不自然な印象を受けた。

「Blackstar.」吉上亮
無理にジョジョのスタイルを表面的に模倣しなかったことが恐らくは正解で、収録作のなかでも小説としての作りはかなりしっかりとしている。謎の人物からの依頼を受けるという導入だが、その時点ですでに事件は終わっており、回想という形でストーリーが語られる。〈スパゲッティ・マン〉と遭遇して失踪した人物の履歴を追うパートもワクワクするし、事件が終わったあとにも謎の人物の正体が明かされたり、〈スパゲッティ・マン〉に対する更なる掘り下げがあったりするところは満足度が高い。難点は〈スパゲッティ・マン〉に対する考察がかなり科学的に説明されてしまうので、ホラーとしては尻すぼみになっていく点だろうか。〈スパゲッティ・マン〉の容姿の説明にベニチオ・デル・トロを使うのも少し気恥ずかしかった。

「血栞塗」宮本深礼
あまり面白くなかった。今回のネタは赤い栞。これも露伴スタンド能力ヘブンズ・ドアー〉から発想されたものだろうが、肝心の怪奇がありきたりなのと、解決編があっさりし過ぎていてなんだか拍子抜けしてしまった。しかし、この露伴、叫びまくっている。

「検閲方程式」維羽裕介
ホラーとしての完成度が高く、この短編集で一番怖かった。怖ろしい目にあった人物の日記・記録を読むことで事件に深入りしていくタイプのホラー小説があるが、これはまさにそういった短編で、〈ヘブンズ・ドアー〉で本にした相手に書かれている記述が、実際に作品の一部を構成して話を進めていくのである。この趣向は〈ヘブンズ・ドアー〉の小説における活かし方として王道だと思うのだが、意外にも本作しかやっていない。いや、「血栞塗」でやってるんだが、あれはほぼオチだけなので。そして、〈ヘブンズ・ドアー〉による逆転もやや捻ってあってよかった。

「オカミサマ」北國ばらっど
これもセリフにジョジョっぽさを出そうとして、かえって小説として不自然になっていると思う。というか、よく見たら「くしゃがら」と同じ人じゃないか。しかし、敵と遭遇したあとのバトル展開は最もジョジョっぽい。このまま漫画にしやすそう。


この短編集を読んだ収穫のひとつは、「無理に表面的にジョジョに寄せると不自然になる」ということが個人的に確認できたこと。漫画の紙面では周囲から浮かないセリフが、文字だけでできている小説の中に配置されると、どうしても地の分などと比較して過剰にうるさくなっていた。その点、文体面でとても冷静だった吉上亮は好印象だった。幸い露伴先生はわりと普通のセリフでキャラクターが再現できるので、あえて表面的な類似を狙う必要はないのではないか。

あとは〈ヘブンズ・ドアー〉の便利さ。ほぼなんでも出来るので露伴を様々な危機に陥らせることができるし、そのことが話作りの自由度に貢献している。一方で射程距離の短さや、後手に回ると脆いところなど弱点もあるので、逆転がワンパターンにならず発動のさせ方に工夫をすることができる。この〈ヘブンズ・ドアー〉による逆転をどのように構成できるのかという点に作家の技量があらわれるのだと思う。


岸辺露伴は叫ばない 短編小説集 (JUMP j BOOKS)

岸辺露伴は叫ばない 短編小説集 (JUMP j BOOKS)

タイカ・ワイティティ『マイティ・ソー バトルロイヤル』

マイティ・ソー バトルロイヤル
Thor: Ragnarok
2017年 アメリカ 130分
監督:タイカ・ワイティティ


グナロクの預言を語る炎の巨人スルトを倒し、また前作で死んだはずのロキがなぜかオーディンになりすましてアスガルドを統治しているのでこれもしめたところで、ロキと一緒にオーディンを探しにいくと、ドクター・ストレンジのもとで再会するのだが、オーディンアスガルドへは帰らないという。死の間際にありがちなことだが、実はソーには死の女神ヘラという怖ろしい姉がいることが明かされると、オーディンが死んだその瞬間に長女ヘラがかえってきて、二人は一蹴されてしまう。ヘラにアスガルトを乗っ取られた代わりに、辺境の惑星サカールへと飛ばされたソーは、そこで統治者グランドマスターに闘士として売られてしまい、チャンピオンであるハルクと戦ったり、ロキに裏切られたりしながらもアスガルドへ帰還しヘラ打倒を目指すのだった。
題にはラグナロクとあるように、オーディンが死んだり、ムジョルニアがあっさり壊されたり、アスガルドの負の歴史が明かされたりと、かなり物悲しい展開がつめこまれているシリーズ第3作なのだが、それをぶち壊すかのようなギャグシーンがふんだんに挿入されていて、しかもそのギャグがNGシーンをカットし忘れたかのようなゆるいギャグなので、全体的に弛緩した雰囲気がただよっている。そのうえ、上映時間の大半は惑星サカールでの古く懐かしいスペースオペラ的なドタバタコメディなので、ラグナロク感はあまりない。この弛緩した雰囲気がとても好ましかった。わたしのお気に入りは、ブラックウィドウのまねをしてハルクをあやそうとするソーと、ハルクにボコボコにされたソーを見てガッツポーズを決めるロキである(『アベンジャーズ』でロキがハルクにやられたときとまったく同じなのだ)。また、冒頭でオーディンに化けてアスガルドを統治しているロキが、部下にやらせている演劇のくだらなさは印象深い。この微妙にすべってるギャグがゆるくていいのだと思う。そういった戦略でラグナロクの悲劇を横にズラしつつ、神話ではなく国家の話にすりかえている。国家の建国神話を破壊し、アスガルドの市民が国土を失った移民となるので、なんというか「移民の歌」がかかっているのだ。「国家とは土地ではなくそこで生きる人々なのだ」という理屈をオーディンが述べるのだが、現実世界をみるかぎり、それは実現の難しい理想なのかもしれない。


デヴィッド・R・エリス『ファイナル・デッドサーキット 3D』

ファイナル・デッドサーキット 3D
The Final Destination
2009年 アメリカ 84分
監督:デヴィッド・R・エリス

によって例のごとく、サーキット場で激しいクラッシュ事故を予知した少年が現れ、例によって例のごとく、それが現実となるので、例によって例のごとく、10名の男女が無事に生き延びるのだが、例によって例のごとく、死の運命からは逃れられずに、次々とありえない偶然が積み重なって死んでしまう。
のシリーズ最大のヒット作ということだけど、第2作『デッドコースター』のデヴィッド・R・エリスが再登板ということで、なんだかその第2作を思わせるような二次災害のすさまじい事故が起きまくる。この監督がやると事故の規模がひどくならないか? それにあわせてグロテスク度も増しているし、生理的な嫌悪感ということではプールの排水溝に内臓を吸われて死ぬという死に様がいやだ。これはパラニュークのいわくつきの短編「はらわた--聖ガット・フリー語る」を彷彿とさせるのだ。Box Officeによれば制作費は上がったはずだが(その割には上映時間が短くなっている)、それでも本作に登場する大規模な事故を再現するには至らなかったのか、CGの安っぽさが目につくし、そのせいか全体的に雑にみえる。この点は『デッドコースター』も変わらないのだが、パワーが落ちているし、正直こちらはもう殺人ピタゴラスイッチに飽きはじめているので、これといって進歩や新鮮さのない殺人ピタゴラスイッチを見せられても面白くもなんともない。なにか別のアプローチがほしい。出てくる役者にどれも魅力がないというのもいけない。3D映画として撮られた本作で、クライマックスの場面は3D映画、それも飛び出る爆発シーンの場面で、ファイナルデスティネーションだから本当に爆発が飛び出してくるという悪趣味なギャグをやっていた。なお、分かりにくいがシリーズ4作目。


ジェームズ・ウォン『ファイナル・デッドコースター』

ファイナル・デッドコースター
Final Destination 3
2006年 アメリカ 93分
監督:ジェームズ・ウォン

ある高校の卒業イベントが開かれている遊園地で、凄惨な事故を予知した少女はジェットコースターを降りて助かるが、残念ながら彼氏は助からなかったのでずいぶんと落ち込んでしまう。そして、少女のおかげで助かった生存者たちも、また例によって例のごとく死の運命からは逃れられず、次から次へと死んでしまうのだが、少女はその時使っていたデジタルカメラの写真に、これから起きることのヒントが隠されていることに気がつき、みなに警告しようとする。しかし、頭の軽い日焼けサロン通いのビッチ二人組や、唯物論的な考え方をするゴスカップルなどは、その警告を信じてくれない。
演のメアリー・エリザベス・ウィンステッドがまずかわいい。日本人ウケのする顔立ちだと思う。チアリーダーのコスプレとかしてほしいなと妄想したけど、『デス・プルーフ』に出演したときにチア姿だったことを思い出した。また制作費が格別上がったということもないだろうに、スタッフの腕がいいのか、シリーズで一番映像として安定している。とりわけ冒頭のジェットコースターの場面は、まったく無駄のない的確なリズムで的確なカットが並べられるのでおどろいた。カメラのフラッシュを繰り返してリズムを作り、またジェットコースターを降りようとするヒロインに抗議する黒人生徒が、暴れた拍子にゴス女を殴ってしまうところなどは、編集が小気味よかった。コースターに乗ろうとする場面では、数字の書かれた床がぐいーっと伸びる「めまいショット」もある。そして、みんなが記憶するだろう日焼けサロンのシーン。ともかく焼け死ぬというのがいいし、熱で鏡面が砕けた拍子に、そこに映っているビッチ女の顔も砕けるところなんかは最高で、二人が死んだあとサロンの機械がそのまま棺桶のカットに繋がるメタファーも面白くて退屈する暇がない。あれもこれも画面に意味ありげに映して観客を宙吊りにする演出は、やや控えめになったのか、あるいはこちらが慣れてしまったのか、前作ほど面白くは感じられなかった。なお、まったくそれ自体に意味のない細部だが、パソコンを見ているヒロインの顔とその妹の全身が同じくらいの大きさに見えるパンフォーカスのカットもインパクトがあった。


チャイナ・ミエヴィル『都市と都市』/フィクションの消滅


都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)

都市と都市 (ハヤカワ文庫SF)


ミエヴィルの『都市と都市』を読んだわけだけど……原書が2009年に出版され、翻訳も2011年の年末には出版されていたこの小説を読み終わるのが、まさか2018年になるとは思っていなかった。途中、もう完全に読んでいない時期もあったのだが、それでもなんとか1ページずつ読んでいき、半分ほどまで読んだところで挫折し、しばらくは読んだふりをしてなんとか『都市と都市』の話題を切り抜けていた。そして読み終わったいま、だれも『都市と都市』の話をしていない……。

Togetterにまとめられている感想ツイートを読むと、当時、みんな本当にきちんとリアルタイムで読んでいたんだなという気持になった。

以下では、『都市と都市』のネタバレも一部あります。お気をつけて読んでください。



『都市と都市』はタイトルが示すように、二つのとても奇妙な都市にまつわる小説になっている。〈ベジェル〉と〈ウル・コーマ〉という二つの都市国家は、地理的にはほとんど同じ場所にあるのだが、モザイク状に入り組み、それぞれがまったく別々に独立した国家として存在している。まるで東西冷戦期の東ドイツと西ドイツをおもわせるような設定だけれども、べジェルとウル・コーマをへだてる壁があるわけではない。そこに住む住人たちは、お互いを、そしてお互いに属する建物や車などあらゆるものを〈見ない〉ようにし、声さえも〈聞かない〉ようにして生きている。これを破るようなことをしたとき、どこからともなく〈ブリーチ〉という組織がやってきて違反者を連れ去ってしまうという。そのルールを破る行為そのものもまた、〈ブリーチ〉と呼ばれる。

したがって、地理的には近隣であるはずの場所でおこった火事を見ることができないため、隣国のできごととしてテレビでその光景を見るといった奇妙極まりないシーンがでてくるのだ。

かといって、べジェルとウル・コーマでは相互の交流が断絶しているというわけではなく、コピュラ・ホールという施設をとおって反対側の国にいくことができる。そこでは、旅行者は長い検査をうけて母国を〈見ない〉ようにし、異国を〈見る〉ようにする訓練を積まなければならない。

また、べジェルとウル・コーマの混在の仕方はさまざまで、ある土地は〈完全〉にべジェルないしウル・コーマだが、それらの区分が複雑に入り乱れているところ、すなわち〈クロスハッチ〉している箇所もある。そして、べジェルなのかウル・コーマなのかがはっきりとは分からない土地もあるせいか、都市と都市のはざまには第三の土地〈オルツィニー〉があるという伝説さえ存在するのだ。

チャイナ・ミエヴィルは、これほどまでに奇妙な話を、これといったSF設定も用いずに、警察・ハードボイルド小説の説話になじませて、現代の欧州のどこかに存在する都市国家の話として成立させている。

だから、作中には平気で「グーグル」という言葉が出てくるし、アメリカのハイテク企業が投資のためにやってきていたりもする。

それどころか、ベジェルやウル・コーマの人々が、懸命に守っている都市のルールを、外部からきた人間が完全に無効化するような瞬間さえ『都市と都市』には描かれているのだ。

作中でほとんど無制限な権力を行使できるような、万能に近い組織として描かれることの多かった〈ブリーチ〉に制止をうけ、銃を向けられたある外国人はいう。

「私はべジェル人でもウル・コーマ人でもない」クロフトは言った。英語で話しているが、私たちの言っていることはきちんと理解していた。「あんたらに興味もないし、怖くもないよ。私は行く。『ブリーチ』、ね」彼は首を振った。「まるで見世物小屋だ。こんな奇妙でちっぽけな二つの都市を、外の人間が気にかけているとでも思うのかね? ここの人々はあんたらに資金を出し、あんたらの言うことを聞き、疑問も挟まないだろうし、あんたらを恐れる必要もあるかもしれないが、ほかの人間はそうじゃないんだよ」クロフトはパイロットの隣に座り、シートベルトを締めた。「あんたらには無理だとまでは思ってないが、あんたらやその仲間には、このヘリを阻止したりしないことを強く提案するね。『離陸禁止』か。あんたらがわが国の政府を怒らせたら、いったい何が起きると思ってるんだ? べジェルかウル・コーマが本物の国を相手に戦争を挑むなんて、考えただけでも滑稽だ。ましてあんたがた〈ブリーチ〉じゃあね」(471p)

設定の根幹が、超常的なSFガジェットに支えられているわけでもなく、あくまでべジェルやウル・コーマやブリーチといった共同体に所属する人々の自助努力によってなされている以上、そういった文脈を共有しない外部の人間にこうしてあっけなく突き崩されることも、考えてみれば当たり前のことだ。

そして、あれほど万能に見えた〈ブリーチ〉も、ここにいたっては単なる小さな都市国家の、そのまた一部を担う官僚機構でしかなく、外国人を制止するだけの権力も持ちえないということが明らかになる。

これはかなりすごいことではないのか。

あるユートピアディストピア、あるいは現実離れしたルールによって支配された都市や国家を舞台にすえた小説・映画・コミックは枚挙に暇がないが、基本的にどの作品も、今ここにある現実との距離を計測し、しばしば現実から完全に切り離されたものとしてそういった都市・国家を描くことになる。なぜなら、そういった荒唐無稽な設定は、現実世界のなかに据えたとき、明らかに馬鹿馬鹿しくツッコミどころ満載のものにしかならないからだ。

もちろん、そういった荒唐無稽な虚構と現実の衝突を作劇に組み込むことができるが、『都市と都市』で起きていることは衝突でさえない。そもそもの根幹的な設定が、先ほどの引用部では、完全に無効化されてしまっているのだ。

よくよく考えてみると、完全に現実から切り離された空間として、都市や国家を設計し、そこでフィクションを展開することは、しばしば容易である。現実から切り離すことで、さまざまな瑕疵には目をつぶってもらいやすくなるし、〈寓話〉ということで、描写の曖昧さにも目をつぶってもらえる。

もちろん、そういったことは、小説の活かし方としては正しいのだと思う。けれども、それだけではダメなんじゃないだろうか、ということを最近強く思うのだ。

ミエヴィルのやったことは、現実には成立しがたい奇妙な設定をあえて読者の厳しい目線にさらすようなことで、通常は書き手が避けてとおりたいようなことだ。またミエヴィルはジャンルフィクションの定型に対して敬意を払い、きちんと忠実にミステリやハードボイルドの小説として読まれるのに遜色のないものを提出している。そういった生真面目さが、あるいは展開の突飛さや、あっというような派手なアクションをはばんでいるのかもしれない。それによって失われるものも当然ある。そのバランスをどうすべきなのかが、いつも問題になるのだろう。

〈見ることのできない〉犯人を追うパートや、べジェルやウル・コーマのいずれを歩いているのかわからない人間を追い詰める方法であるとか。〈オルツィニー〉の存在や、〈ブリーチ〉の実態など、いずれも発展のさせかたに魅力があって、ハードボイルド小説の筋はもちろんとして、思考実験としてのSF的な部分もきちんと楽しめる読書だった。

『都市と都市』がすぐれた小説であることに異論はないが、こういった小説を書くハードルをいくつも上げてくるような小説で、頭をかかえるのであった。

クリント・イーストウッド『15時17分、パリ行き』を見た。


イーストウッドの新作見てきました。なんだかんだ毎回見てるね。


それで思ったのは、「やっぱり仕事ってよくないね!」ってことですよ。よくないわ健康とかに。

思えば、『アメリカン・スナイパー』のブラッドリー・クーパーも、仕事で戦争やってたから病んでしまったわけだし、『ハドソン川の奇跡』のトム・ハンクスだって、仕事だからあんなにねちねちと事故の原因を訊かれたわけだし、ほんと仕事に関係すると英雄もたまったもんじゃないよねと。

その点、本作の主役陣は、まずヨーロッパ観光中にたまたまテロ事件に出くわしたわけで、スペンサー・ストーンも、アレック・スカラトスも、アンソニー・サドラーもみんな仕事でやってたわけじゃないんですよ。ストーンとスカラトスは一応軍人なんだから、営業時間外の仕事といった側面はあるのかもしれないけど、サドラーにいたっては大学生ですからね。

正直、前評判でかなり変わった映画だと聞いていたせいか、拍子抜けするところがあった。確かに実際にあったテロの再現映画としては、肝心のテロ場面が少なく、ヨーロッパ観光の場面にかなりの時間を割いているという特徴があるんだけど、その理由は作中で十分に説明されていると思う。(あるいは単純に、実際の事件自体が短く、それを拡張するのにも限界があっただけなのかもしれないし、原作の本がそもそもこうなっているのかもしれない)。

ある環境で育った人間が、ごく自然に育っていくなかで、保守的な価値観を獲得し、軍人になる。そして、その人物が旅行中にテロ事件に遭遇し、ごく当たり前のこととして、犯人に立ちふさがる、という形での英雄の描きかたは『アメリカン・スナイパー』などと共通している。

また、柔術の練習場面が、実際のテロ場面で生かされる。あるいは、直接関連するわけではないが、止血の訓練があって、実際のテロの場面でも止血をする。そして、基地で発砲事件があったとき、上官の指示に逆らってでも、隠れずにいつでも抵抗できるように待機する性格である。こういったエピソードの数々は伏線として機能しているし、それは説話としてそれほど奇妙なことではない。

こういった人間がいて、それがこういう環境に放り込まれたら、反射的にこういうことをするだろう。その積み重ねがテロの場面に結実するにすぎない。

それは、仕事として訓練されたプロフェッショナルな身振りというわけでもなく、単なる「素」の行動とか、これまでの人生でたまたま培ってきた積みかさねが、たまたま役に立ったという感じなんだよね。

スペンサー・ストーンは、空軍に志願するときに「人生ではじめて努力した」という人間であったし、せっかく志願した部隊には、視覚に関する先天的な問題で落第。そのあと配属された部署でも、なんとなくやる気になれないまま落第。アレック・スカラトスも、戦争にやってきたのはいいものの、戦争らしい戦争はなく、暇そうにしていることをストーンとのチャットで告白している。

だからこそ、映画自体も、それ自体が合目的に映画の展開にかかわるわけではない、だらだらとしたヨーロッパ観光にかなりの時間を割くことができる。いや、むしろ割かないといけないのだ。なぜなら、人生とはそういうものだし、すべてが合目的というわけにはいかないからだ。

ヴェネツィアが特にいいんだけど、前にヴェネツィアを映画で見たのってイオセリアーニの『月曜日に乾杯!』だったし、ほんと仕事したくねーなー、ってときはヴェネツィアにいくべきなのかもしれない。

こういう傾向は衣装にもあらわれていると思う。終始ラフな格好をしているサドラーに対して、子供のころのストーンとスカラトスは迷彩シャツを着ている。それは二人の友情を示す演出でもあるし、一方でその後の二人の進路を示してもいる。しかし、あくまで遊びの範疇である。さらに、バイト中にやってきた海兵隊員との会話でも制服はひとつの演出になっているのだが、ストーンは制服からその人物が海兵隊だと即答できなかった。そして制服を着たストーンとスカラトスはこれといった活躍をしない。むしろ、肝心のテロの場面で彼らはみなシャツ姿をしていて、勲章を受けるときもそうだった。

アメリカン・スナイパー』で、ブラッドリー・クーパーはしだいに観客と視界を共有できなくなっていき、砂嵐のなかに消えてゆく。本人はいわば伝説に上書きされて、いなくなってしまう。

ハドソン川の奇跡』で、トム・ハンクスは分裂する。「サリーがいっぱいいる!」というセリフがあったような気がするし、なにより最後の本人映像のときに、トム・ハンクスが本人とそれほど似ていないせいもあって、まさしく「サリーがいっぱいいる!」のだ。

『15時17分、パリ行き』では、伝説と事実があっけらかんと一致する。オランド仏大統領が演説を述べて、英雄たちに勲章を与える場面では、実際の映像と、再現映像がほとんど違和感なくつながってしまう。

いやー、仕事じゃないよね。

でも、こういう構成で映画を撮ってしまい、あまつさえ本人起用みたいなウルトラCが許されてしまうのは、『アメリカン・スナイパー』でも大ヒットを飛ばし、作家性を満たしながら同時に商業的な結果も出すことができるようになった、クリント・イーストウッドというプロフェッショナルが特権的に持ちえる立場というだけのことかもしれない。

それでも、まるで人生の夏休みを満喫しているとでも言わんばかりな三人組に、すごい傑作とかいうわけではなくとも、こちらもつい気持ちよくなってしまう映画だった。


ジョン・マクティアナン『プレデター』

プレデター
Predator
1987年 アメリカ 107分
監督:ジョン・マクティアナン

林に召集されたダッチ率いる特殊部隊が、ゲリラにさらわれた人質を助けるためにミッションに就くが、当のゲリラを壊滅させたところで、ミッションに隠された別の目的が明かされることになる。そして、救出がないまま、密林を狩場として宇宙人の襲撃にひとりまたひとり隊員が殺されていく。
ても陰惨な80年代的ジャングル殺戮映画だった。軍事絡みの考証や、ジャングルでのサバイバル戦を真面目にやっている感触があり、全体的にかなり地味なのに、弾薬と火薬の量が異常なので神経症的にみえる。人質の射殺。皮を剥がれ吊るされた死体。砕かれる頭部。もがれたあとも機関銃を発砲しつづける腕。そして、なすすべなく殺されていくマッチョたち。『虐殺器官』の原風景としてこういうジャングル虐殺映画があったのだろうかと思う。『ティアーズ・オブ・ザ・サン』はその末裔といえるのだろうか。戦闘シーンはスローモーションが多用されていて、カットの繋がりもあまり明快ではないせいかちょっとだけペキンパーっぽい。そして、すごい落下スタントが何度もある。滝つぼへの落下! シュワちゃん以外のメンツもかなりガタイがよく、明らかに筋肉フェチ向けのカットもあるなか、自傷シーンや血まみれにされる部分も多く、これもフェチ向けなのだろうかと邪推してしまう。シュワルツェネッガーもエイリアンには、身体能力で圧倒されボコボコにされてしまう。